りょんさんの詩誌時評『No.017 角川 『俳句』 2014年04月号』 をアップしましたぁ。最近俳句関係のコンテンツをアップしておりませなんだ。そこでりょんさんに角川『俳句』時評をお願いしました。りょんさん節、炸裂ですねぇ(爆)。ほんで不肖・石川は、俳句の足元を見直す意味でもりょんさん的俳句の読みはあっていいと思うのであります。
俳句を巡る言説はだいたい3つに分類できます。
(1) 俳句史・俳人論・俳句論
俳句史、俳人論、俳句論と切り口は様々ですが、俳句芸術とは何かを巡る、本質的には抽象思考的言説です。
(2) 俳壇内言説
プロとノンプロから構成される俳壇内の言説です。メディアによってルーティーン的に繰り返される「季語とはなにか?」といった特集はもちろん、大半は現在どのような俳句が書かれているのか、俳壇では何が行われているのかを紹介する状況論です。
(3) 一般向け言説
新聞や一般誌などに掲載される俳句関係の記事です。ごくわかりやすく俳句文学の魅力を伝える原稿がほとんどです。
このうち圧倒的な量を誇るのが(2)の俳壇内言説です。誰々がこー言った、あの時はこーだった、切れ字はこうやるのよん、季語の基本はなんたらで、新しい季語はどーするよといった言説で溢れかえっています。俳壇に足を踏み入れると、基本、結社と同人誌のセクショナリズム世界ですから、こっちゃが正しい、いやあっちゃの方が説得力ある、む~everybodyいろいろ大変よねぇ、でわけがわからなくなるのが普通であります(爆)。
ほんで圧倒的量を誇るにも関わらず、俳壇外では(2)の俳壇内言説はほとんど読まれていない。一般読者が読むのは(1)か(3)です。(2)の俳壇内言説が(1)や(3)を支えてるのよんといふ意見もあると思いますが、石川はそーかなーと思います。ヒマにまかせて俳壇井戸端会議してるだけぢゃんと思ったりします。だって魅力的な(1)や(3)の原稿書ける俳句作家、ほとんどいないんだもの。ミイラ取りがミイラになるやうに、(2)の浮いては消えてゆくジャーゴン原稿を書くのがお仕事だと思い込んでいる俳人さんたちが大半であります。
りょんさんは、「料理と俳句の関係は、わりあい納得いく感じだった。・・・短歌の場合だと、「何とかかんとかサラダ記念日」みたいに・・・主役は人間。サラダが大事なんじゃなくて、「美味い」と言った男の方に意識が向いている。・・・俳句は、そこに詠み込まれた食べ物とか料理とかがあったら、それはそれとして詠まれてるみたい。・・・ヒトが出てくるとしても、モノと同格と言うか」と書いておられますが、その通り。俳句では写生が基本だと言うと即座に反発する前衛志向の俳人の方もいらっしゃいますが、俳句が時間や心理表現よりも空間表現に長けた芸術であることは動かしがたい。不肖・石川、長所を生かそうとする俳人の試みは、基本、理解できます。
もちろん俳句には写生以外の様々な表現手法があります。しかし俳句作家、あるいは俳句芸術には恐ろしく傲慢なところがありますね。俳句が日本文学の基層であることは確かだと思いますが、俳句文学で人間存在の全てを表現できるわけではありません。俳句に一生懸命になればなるほど外の世界が見えなくなり、実質的な俳句万能主義、俳句至上主義を唱える作家が多くなる。俳壇ほど先生の多い文学ジャンルはないですね。外から見てるとけっこう小っ恥ずかしい(爆)。少なくとも俳壇外の人間に〝俺は、私は先生だぁ〟を強要するのはやめてもらいたひ。俳句は万能ではありません。それに俳句で何ができて何ができないか、その理由をを正確に把握しない限り、逆説的ですが俳句文学では従来は表現不可能だった事柄を、新たに表現に加えることはできませんよ。
■ りょん 詩誌時評 『No.017 角川 『俳句』 2014年04月号』 ■