北村匡平さんの新連載映画批評『創造的映画のポイエティーク』『No.001 嘘と不在の映画学―アスガー・ファルハディ『彼女が消えた浜辺』』をアップしましたぁ。北村さんは東京大学大学院修士課程在籍中で、戦後映画史研究・表象文化論・メディア論を研究されています。日本映画学校卒後、カリフォルニア大学(UCD)に1年留学されており、俳優業もなさっていたことがあるらしひ。マルチな才能をお持ちの方です。
今回北村さんが取り上げておられるのは、アスガー・ファルハディ監督・脚本の2009年制作の映画『彼女が消えた浜辺』です。ファルハディ監督は1972年生まれですから、7歳の時にイラン革命が起こったんですね。イスラム世界は、キリスト教が主流の欧米諸国と長い間様々な面で衝突と対立を繰り返してきたので、日本ではどーもあまりいいイメージがありません。はっきり言うと、欧米のアンチ・イスラム的プロバガンダに染められている面があります。しかしイスラム圏の人々が全員狂信的信者であり、イスラム原理主義をかかげる武闘派であるわけがない。映画などを見るとそういうことがよくわかります。
『彼女が消えた浜辺』は3組の中年家族と1組の若い男女が、海辺のリゾート地でバカンスを過ごすといふ設定です。若い男女は初対面で、中年家族の一人が出会いを演出しようと計画している。しかし女性の方には婚約者がいる。恐らく親が決めた婚約で、彼女はそれを破棄したがっています。浜辺で遊んでいるうちに子供が海で溺れ、若い女性はそれを助けようとして行方不明になってしまう。女性が溺れたという報せを受けて、男の婚約者がリゾート地にやってくる。映画はそれまで中年家族らがついた嘘と、行方不明(不在)の若い女性を巡って進んでいきます。
北村さんは『この監督は僕たちに何を伝えようとしているのだろうか、作者の意図とは何だろうか。・・・この作品をどのように豊かに読み込むべきだろうか』と書いておられます。映画では女性の溺死体が見つかるのですが、それはもしかすると別人かもしれないと示唆されてます。単純なようで実に複雑な映画なのであります。女性は『永遠の最悪より最悪の最後がマシ』というあるドイツ人の言葉に共感していますが、女性の不在(失踪または溺死)には、イラン社会が抱える問題(とその抜け道)が凝縮されているのかもしれません。
いずれにせよ『彼女が消えた浜辺』は息苦しい映画のようです。北村さんはそれを『諦めた夢、喪失した家族、愛した人。僕たちは「嘘」を重ねながら、失った「過去」とともに生きねばならない』と書いておられます。死の世界であれ外国にであれ去って行った女性も、残された婚約者も、ある不在・喪失感を抱えなければならないといふことでしょうね。
映画批評は書き続けるうちに作家の思考がじょじょに伝わってくるものだと思います。金魚屋では1年間ほど後藤弘毅さんに『映画の表現型-あるいは、映画批評の探検-』を連載していただきましたが、後藤さんの主題は無垢な女の子と落ちる(墜ちる)男といったものだったなぁ。北村さんにはどんどん書いていただき、映画批評を通しでその思想を十全に表現していただければと思いますぅ。
■ 北村匡平 新連載映画批評『創造的映画のポイエティーク』『No.001 嘘と不在の映画学―アスガー・ファルハディ『彼女が消えた浜辺』』 ■