長岡しおりさんの文芸誌時評『No.007 小説現代 2014年03月号』をアップしましたぁ。鉄道モノミステリー小説の大家・西村京太郎さんと『駅物語』の著者・朱野帰子さんとの特別対談を取り上げておられます。ごく短い対談ですが、超売れっ子作家さんはなかなか時間がとれないのであります。西村先生が月産何枚書いておられるか存じあげませんが、不肖・石川がチラチラ読ませていただいているところでも、200枚ってことはないだろうなぁ。月産300枚くらいとして、毎日10枚は書かなくちゃならない。取材や勉強も必要でしょうから殺人的な忙しさだと思ひます。売れっ子は売れっ子で大変なのであります。
ほんで長岡さんは、『小説とは、そもそも空間的なものだ。空間を移動するという要素がないと、場面転換が難しくなり、長くは書けない。さらに長編小説にするには、三人称で視点を複数にする場合が多いのだが、視点が別人のものになれば見える光景が変わってくる。小説とはつまり、広い意味での空間操作によって創り上げるものだ』と書いておられます。確かにそうですね。純文学や大衆小説といった区分は別として、主人公を空間的に移動させないと長篇小説は書けません。移動の少ない純文学小説の場合、がんばっても200~250枚くらいが限界かな。400枚を超える作品は、200枚台の作品とは書き方がぜんぜん変わってくるんですね。その場合、駅や鉄道は、それを使ったミステリーでなくても、重要な小道具になってきます。
長岡さんはまた、『鉄道というのはよくよく文学と相性がいいのだろう。どこまでも伸びる線路、その重なり合いや分岐は、人の時間を抽象化し、出来事を過ぎ行かせ、相対化する。しかし同時に、「鉄」に「乗る」とは、人の肉体の体験そのものだ。社会が変容し、ネットによる抽象化や相対化がどれほど進んだところで、情報では人は殺せない』とも書いておられます。これもその通り。ネットと防犯カメラの時代になって、従来のような時刻表の隙を突くようなトリックは難しくなりましたが、鉄道に乗らざるを得ない人間の動機(背景)は変わりません。鉄道や駅を小道具に使う場合でも、トリックとしての小道具か、人間心理を描写するための小道具かでその扱いが自ずから変わってくるといふことでもあります。
もしかすると〝書く〟ための勉強に西村先生の作品を読む作家の卵さんは少ないかもしれませんが、何ページ目に最初の殺人が起きて、二回目の殺人は何ページ目、トリックを解くための伏線は何ページ目に書かれているなどと作品分析すると、得るものはたくさんあると思います。
■ 長岡しおり 文芸誌時評 『No.007 小説現代 2014年03月号』 ■