金井純さんの『親御さんのための読書講座』『No.030 楽隊のうさぎ』をアップしましたぁ。『楽隊のうさぎ』は中沢けいさんのビルディングス・ロマンで、2013年に鈴木卓爾監督によって映画化されました。中沢さんは1978年に『海を感じる時』で群像新人文学賞を受賞され、現在も旺盛に執筆されながら法政大学文学部日本学科教授も勤めておられます。大学誌「法政文芸」編集長でもあります。あ、「法政文芸」、文学金魚の文芸誌時評で取り上げてないなぁ。つーか一般に流通してるのかしらん。
金井さんは『楽隊のうさぎ』について、『自閉的な中学生がブラスバンド部に入り、友人たちと全国大会を目指す、・・・タブーになりそうなところはない。しかし視点を変えれば、タブーを打ち破り続けている物語なのだとも言える。・・・子供は多かれ少なかれ、外の世界が怖い。外部と触れ合い、社会的なものを目指す、というのは内なるタブーを破り続けることである』と書いておられます。また『この音楽を扱っている物語の文章が、あまり音楽的でないことが少し気になった。・・・文章に対し、安易に歌うことを禁じる、というストイック感は純文学的なるもの、もしくは自閉症気味な主人公の心象かもしれない』とも評しておられます。
文学におけるリズムや音楽性ってビミョ~なものです。小説で音楽的と呼ばれる作品は、結果論的にそうなった作品が大半です。自由詩では意識的にリズム・音韻を取り入れようとしたマチネ・ポエティックの試みなどがありました。で、それによって作品が音楽的になったかといふと、どーもそうは言えない。確かにリズム・音韻はあるんですが、それが文学と結びついていない。逆に文学にそんなに音楽が必要かい?と思ってしまうのであります。
文学に限りませんが、創作はすべて〝結果〟です。思想や方法論を探究しなくても、傑作という結果を生み出せればそれで良いのが創作の世界です。ただ徒手空拳では秀作・傑作を継続的に生み出せない。また一作傑作があっても、その他の作品が駄作であれば、傑作の化けの皮が剥がれるといふことも起きる。駄作を読むことで、ある時期に、なぜその作品が傑作に見えたのか、その理由がはっきりわかってしまふんですね。なんの謎もない作品は魅力を失います。
原理的に言えば、小説や自由詩にまずなによりも音楽を求める作家や読者は少ないはずです。どんなに頑張っても音楽が与えてくれる快感にはかなわない。だから文学における音楽性は、イメージと同様に作品構成要素の一つです。わたしたちがこの作品の音楽性、あるいはイメージは素晴らしいと言うとき、たいていはそれを成立させている文学独自の理由が別にある。それはやはり作家の確信(的思想)でしょうね。作家が全体を見渡すような確信をもって作品を書き始めた時に、音楽やイメージ性は自ずから言語として構築されていくのだと思います。
■ 金井純 『親御さんのための読書講座』『No.030 楽隊のうさぎ』 ■