Ⅸ 水
大野露井
耳朶を泳ぐ魚の優しさで
ずっと奥までしみとおる
咽喉の潤いは驚くほど速く
内臓で恥知らずな音を立てる
瓦斯灯に照らされた
煉瓦の歩道のまんなかで
とめどなく続いたはずの応酬が
ぎこちなさに変わる頃
レインコートの前をはだけて
ぬれねずみが出かけてゆく
かすかに匂いが残っている
わずかに声が響いている
どこまでゆけば生活はあるのだろう
国境を越えるのは容易いのに
マスカラが流れるほどには泣けない
出来合いの常套句を遠ざけられない
もしやりなおせるなら
試したいことはいろいろある気もする
だめとはわかっていても
せめぎあいは常に
生命の内部で起こる
楽ちんに器用にそして清潔に
生きるのが賢いのか
でなければただひたすらに
百合の媚薬に酔うのが美しいのか
首根っこを掴んで耳元で教えてほしい
辛うじて均衡を保っている
轍からいまにも逸れそうな車輪
野放図にかけめぐる馬車は
なぜあなたを置いてけぼりにするのか
街区にせきとめられる
レジスタンスさながら
歯止めのきかない怒りのやり場を
魂のなかに求める
得がたい安らぎを夢みたまま
ずっと悲しく抱え込んでいる
しみわたる冷たさが
手先から感覚を奪ってゆく
しばらくすると芽が伸びてくる
花弁が爪のうえに折り重なる
もう私は私ではない
もう朝でも夜でもない
扉が閉まったこともわからない
残されたのはここだけ
みっともないなんて気にせずに
ずっと奥までお入りなさい
逃げ場と呼ぶには当たらない
穴にお入りなさい
ラビリントゥスの無間奈落
ずっと奥までお入りなさいよ
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■