鶴山裕司さんの新連載文芸批評『アトモスフィア文学論』『No.003 二十一世紀文学の基層-辻原登論(下)』をアップしましたぁ。金魚屋新人賞選考委員の辻原登さんについての作家論、完結篇です。書き忘れていましたが鶴山さんの辻原論は約50枚です。完結篇では辻原さんの最新作『冬の旅』を取り上げ、辻原文学の作品構造について論じておられます。
不肖・石川は、詩人論を含めて文学金魚に掲載された鶴山さんの評論を全部読んでいますが、構造主義的批評だと思います。構造主義、古いぜぇとすぐにお考えになる方がいらっしゃると思いますが、石川はそうは思いません。日本の批評はきちんと構造主義の方法を受容していないと思います。いきなりポスト・モダニズム批評に行ったわけですが、怪しげなタームを振り回すだけのレベルの低い批評が多い。吉本隆明さんの真似をすれば、「回らぬ口でデコンストラクションなどと言うな」と言いたくなる瞬間もあります。
現代的(ポスト・モダン的)な身振りはしていますが、文芸誌の批評のほとんどは意味論です。作家が何をどう伝えたいのかが論の焦点です。ずーっと以前から行われていた古典的批評様式にポスト・モダンの粉砂糖を振りかけただけだなぁ。そもそも小説を意味伝達内容ではなく、構造として読解することの意義がわかっていないんぢゃないでせうか。
これに対して、詩作品は意味からだけでは読み解けないことが多いので、詩壇ではてんでバラバラの、浮いては消えるような茫洋とした印象批評がたくさん書かれています。でも中にはそれを、意味ではなく構造的にきちんと読解しようという作家もいます。しかし小説と詩、あるいは他の文芸世界は相変わらず切り離されている。
これだけ情報化社会になっているのに、文学の世界はむしろ保守化しているといふ印象を石川は持っています。なんか悪名高き官庁の縦割り組織みたひ。もちろんそれはメディアだけがもたらしたものではありません。文学者がそうなっているからメディアもそうなる。自己のジャンルに他ジャンルの作家が口を出すだけで、生理的に反発してしまふ作家もけっこういます。こんなこと書くと皆さん『アホらしい』とお思いになると思います。もしそういう作家に会ったら、面と向かってはっきり『アホらし』と言ってください(爆)。
■ 鶴山裕司 新連載文芸批評 『アトモスフィア文学論』『No.003 二十一世紀文学の基層-辻原登論(下)』 ■