『文学金魚オフィシャル読者サイト きんぎょばち』の新コンテンツ、鈴木真吾さんの『忘却される催事の記録――山本俊則「美術展時評」評』をアップしましたぁ。鈴木さんは『「美術展時評」には、大半の来場者にとっては無用の長物として見られかねないカタログという記録、あるいは書物としてのカタログに対する愛情のようなものが潜んでいるようにも思え、書物に魅入られた者としては強い共感を抱いている』と書いておられます。展示方法やカタログの評価を織り交ぜたところが、山本さんの美術展批評の特徴の一つでしょうね。
美術展のカタログは、ほぼ無批判的に作成され流通していると思います。専門家が執筆されているわけですが、学術紀要論文の発表の場かい?と思ってしまふ文章が多い。ほとんどの執筆者が一般閲覧者ではなく、業界内の同僚やライバルを意識した文章を書いているのは確かだと思います。もちろん一般閲覧者は楽しみと同時に学習したいと思って来ているわけですから、わかりやすい文章ならいいというわけではありません。しかし意識が業界内に向きすぎている。結果として、ほとんどのカタログは〝写真集〟として流通している。
ただこれは美術業界に限ったことではありません。文学業界でも似たようなことが起こっています。不肖・石川でも文芸誌や詩誌を読んでいてうんざりすることがあります。『漱石の『明暗』における主体性の問題は・・・』とか、『田村隆一の戦後詩的アポリアはすでに超克され・・・』といった出だしの文章が非常に多い。理解はできますが、このような書き方に同意はできない。現在は、ほとんどの読者が批評対象の作家について予備知識を持っていないことを強く意識した方が良いと思います。マイナーな作家ならなおさらのことです。というよりほとんどの作家がマイナーで昔のような一般的認知を得てない。たいていの場合、読者が批評を読んでくれるのは一回だけです。批評は一回のチャンスで読者に対象に関する興味を抱かせ、ある程度の理解を促すよう書かれなければならない時代だと思います。
今回の著者、鈴木真吾さんは、サブカルチャーやアングラについて強い興味をお持ちのようです。このジャンルもまた、多くの読者にとっては未知の世界です。ただ面白い試みを行う優秀な表現者が集い始めているジャンルでもあります。はっきり言えば、ある程度のお金を稼げる表現ジャンルでなければ優秀な人間は集まらない。その意味で文学は斜陽ジャンルです。夢は大切ですが、この残酷な事実も文学に携わる人間は少しは意識しておいた方がいいと思います。文学者は特権的知者だというのは過去の幻想です。飛びきり優秀でなければ他ジャンルの優秀な作家に太刀打ちできない。鈴木さんにはいずれ、文学金魚がまだ手をつけていないジャンルについて書いていただければと思っています。
■ 『文学金魚オフィシャル読者サイト きんぎょばち』 鈴木真吾『忘却される催事の記録――山本俊則「美術展時評」評』 ■