池田浩さんの文芸誌時評『No.005 papyrus 2013年12月号』をアップしましたぁ。『野心より、義理』といふ、俳優・大泉洋さんの特集を取り上げておられます。大泉さん、魅力的な俳優さんですねぇ。最近話題になった作品では三谷幸喜監督の『清須会議』に出演されていますが、不肖・石川が大泉さんのお名前を記憶したのは、イッセー尾形さんのNHK『たった二人の人生ドラマ』です。鶴瓶さんの『スジナシ』と同様、シナリオなしの俳優2人だけのドラマでしたが大泉さんの回は秀逸だったなぁ。この人すんごいと思いましたもの。
池田さんは『文芸誌こそ文学業界のコードに縛られ、ヒエラルキーを形作っている存在だが、「読むことと書くこと」という原点に立ち戻れる可能性のあるものは、文芸誌しかない。「Papyrus」= 「紙」という即物的な名のこの雑誌で、グラビアもインタビューも芸能雑誌の匂いを立てず、また必ずしも文学的・教養主義的な解釈をなすりつけようともしていないように思える。・・・今回でいえば大泉洋というなかなか定義しがたい魅力のある人物とよく合っている』と書いておられます。確かにPapyrusさんが提示している文芸誌のあり方は独特ですね。
各文芸誌にはコードのようなものが存在し、その総合が文学業界のコードを形作っています。どの業界にもコードは存在しますから、それ自体は悪いことではありません。問題はコードが有効に機能しなくなった時です。そういう場合は新たな方向性を模索しなければならないわけですが、試行錯誤の動きと同時に奇妙な保守化も生じます。あけすけに言ってしまうと、雑誌を牽引する編集部が新たな方向性を見出せない時に、雑誌頼みでデビューしたい作家がそれを提示できる可能性は低い。方向性を見つけられない編集部内でも、試行錯誤と同時に従来路線の踏襲という保守化も生じます。編集部は作家頼みで、作家は編集部頼みという悪循環に陥ってしまうわけです。
この悪循環、そう簡単には解消できないだろうなぁ。文学のようにそれなりに長い歴史を持つ業界の場合、器と中身は密接な相関関係にあるからです。単純なようですが、まずは他者頼みをやめることでしょうね(笑)。編集部も作家も確信をもって作品を世に送り出さなければなりません。編集部と作家のスタンスが明確でなければ、試行錯誤にすらならないからです。どの業界でも何かを新たに生み出すことが一番難しい。コードは新たなビジョンが組織化された時に生じます。しばらくの間はコードに沿っていればそれなりの成果をあげることができる。戦後の一時期がそうでしたね。しかしそのようなコードは、もはや失われてしまったと考えた方が良いようです。
■池田浩 文芸誌時評『No.005 papyrus 2013年12月号』■