Ⅶ 肉
大野露井
私が腕を枕にしているのであなたは煙草を喫
うことができない。代わりにあなたは寝息を
吐いている、脂の匂いを疲労で包んだ熱帯の
朝の空気。それはちょうど陽が落ちたところ
から始まり、窓のない部屋でおそらく夜が明
けそめたことを感じながら一眠りするところ
で終わる。いまはもう白く残った、重い体を
持ち上げて動き出すまでの凡庸で退屈ないく
らかの隙間が、針のない時計で区切られてい
るのを忘れようとするだけ。革でくるんだ万
年筆であなたが文字を書くたびに、私が爪先
立ってあなたの背を、胸を、肩を踏みつけて
印を刻んでいることをあなたは知らない。私
があなたのことを何ひとつ知らず、また知る
必要もないのとおなじように。私はあなたの
腕がそろそろ痺れてきたのではないかと心配
になって、すぐにそんな気遣いをしたことを
後悔する。あなたは肉、私も肉、肉は傷みを
感じない。肉は外にあって柔らかく、筋をつ
まんで引っ張ってみるとほんの束の間、硬く
なる。そのわずかな時間にあなたは私を支配
しようとする。でも肉は支配しない。それを
したいならあなたは肉でないものにならなけ
ればならないとわかっているのに、私がしば
らくなら目をつぶることを知っていて甘える。
しかもあなたは私がそこまで気づいているこ
とを知っていて、私もあなたがそれを知って
いることを知っていることを知っている。で
もあなたはやっぱり私のことを何も知らない
と思っているし、また知る必要もないと思っ
ている。肉は知る必要がない。それなのに、
知ろうとばかりする。肉の土地の下には血の
河が流れている。ただすこし彫ってやればい
い。私の爪先の形は彫ることに適している。
私の耳の下、あなたの脇の下から、血の流れ
る音が執拗に響く。針のない時計を埋め合わ
せる、規則正しい声で。その場所の皮膚はと
ても薄くて、私が爪先立ったらそれだけで破
れてしまうだろう。でもたとえ井戸ができて
も、それはすぐに干上がってしまう。私たち
はいくらも杯を干すことができず、すぐに乾
いて死んでしまうだろう。だから私は重い頭
を持ち上げてあなたに背を向ける。もうすぐ
ここを追い立てられて、私たちは別々に移動
を開始する。そしてまた陽が落ちた頃、おな
じことが始まり、私はあなたの寝息を聞くだ
ろう。それを永劫回帰と呼ぶことができるの
か私にはわからない。でもそんな名のついた
踊りなら見たことがある。私は目を閉じて白
く残った隙間を見つめる。ああ空白は救いだ。
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■