池田浩さんの文芸誌時評『No.003 小説NON 2013年11月号』をアップしましたぁ。長岡しおりさんが「文芸誌時評」とは何ぞやという問いを発せられたのをきっかけに、池田さんもこの問題について考えておられます。文学金魚でも文芸誌時評、詩誌時評を掲載していますがけっこう厄介な問題ですね。
ぶっちゃけた話し、文学金魚で文芸誌・詩誌時評を掲載することになったのは、それらがほとんど読まれていないからです(爆)。はっきり言えば、雑誌で活躍したいと本気で願っている新人賞予備軍の作家しか隅々まで文芸誌を読んでいません。各新人賞には傾向と対策があるからです。一般読者は文芸誌を買うお金があるなら文庫本を買います。新人賞を受賞して軌道に乗った作家もまた、次の作品を書くために本を読むようになる。雑誌は資料にならないからです。文芸誌は新人作家養成兼既存作家の作品発表ペースメーカーとして機能している一種の業界誌です。
もちろん文芸誌が無駄だと言っているわけではありません。魅力的な本のほとんどが文芸誌から生み出されたものです。でも一般社会(読者)の支持がなければ成り立たない文学業界の場合、もっと文芸誌が持っている情報をオープンにしてもいいだろうと思うわけです。
現代では情報をクローズドにすればするほどマーケットは縮小する傾向があります。文学金魚は時評によって既存の文芸誌が持っている情報はもちろん、文学金魚自体の情報もできるだけオープンにしています。そこに文学金魚の編集方針といふか、思想があると考えていただいて良いです。
本気で新たな才能や読者を発掘したいのなら情報の開示は必須です。問題は収益構造ですが、ここからは各社のノウハウでしょうね(笑)。ただ文芸誌の赤字を文学書以外の雑誌や本の売り上げて埋める現在の構造はいびつです。日本文化(文学)を支える出版社というイメージを維持するための、必要悪としての不採算部門といふ位置付けではますます文芸誌が萎縮してしまう。負の連鎖から抜け出すためには新たな文芸誌のスキーム模索が必要です。文学金魚は新たな文芸誌の形態を模索しているのであります。
■ 池田浩 文芸誌時評 『No.003 小説NON 2013年11月号』 ■