小原眞紀子さんの文芸誌時評『No.007 文藝 2013年(冬号)』をアップしましたぁ。新連載の、田中康夫さんの『33年後のなんとなく、クリスタル』を取り上げておられます。『なんとなく、クリスタル』は1980年(昭和55年)に第17回文藝賞を受賞し、翌81年(56年)に単行本化されてベストセラーになった小説です。
切れ味のいい評論ですね。小原さんは『なんとなく』を、『モデルで女子大生である由利の、ミュージシャンの彼とのクリスタルな(?)生活を描いたもので・・・大量に付いた脚注が特徴的な作品だった。・・・脚注の視点はそのマテリアルをマーケティングする側の視点が示されている、という具合だったのだ。この作品が・・・注目されたのは、無自覚で無邪気な消費者であった我々自身が、いかに資本主義経済においてマーケティングされ、「消費」されているかを啓蒙したからだったと思う』とまとめておられます。
小原さんは脚注の意味を、『快適な、すなわちなんとなくクリスタルな生活の中で、どんどん「個」の快楽に閉じてゆく人間の矮小化に対し、社会的なマスの視点から突きつけた批判でもあった』とも書いておられます。この視点を元に考えていけば、田中さんが政治家へと転身していった理由もおぼろに見えてくるかもしれません。
文学作品はそれが書かれた当時の社会から大きな影響を受けています。同時代の本質のようなものを表現している作品が秀作と呼ばれることになります。『なんとなく』はそのような作品の一つでしょうね。ただ小原さんが指摘した〝社会的なマスの視点から突きつけた批判〟を田中康夫さんがその後どう解釈されたのかといふ問題と、『なんとなく』で描かれた時代性は基本的に別個のものとして考えた方が良いと思います。
『なんとなく』という作品を、大きな時代の節目、あるいは現代小説の転換点に据えて評論を書くことは可能だと思います。問題はそこで何が変わったのかといふことです。不肖・石川の感覚では『なんとなく』の〝社会的なマスの視点から突きつけた批判〟は最後の大文字の社会批判であり、その後の社会は誰もが興味を持ち共有できるような社会批判の喪失の中にあるような気がします。文学に即して言えば、〝決定的な主題はもはやない〟という希薄な文学の時代を用意したように思います。
■ 小原眞紀子 文芸誌時評 『No.007 文藝 2013年(冬号)』 ■