三浦俊彦さんの連載小説 『偏態パズル』 (第 31 回) をアップしましたぁ。三浦センセの新年第一弾ですが、思いっきりお下劣な内容になっておりますな~。しっかし今回のような現象分析は必要だと思います。だって 『偏態パズル』 なんですもの (爆)。分類・分析によって帰納的にある観念へと辿り着き、そこから演繹的に思考を展開させて現象を読み解き、現象の多様さによって再び演繹的思考に修正を加えるといふのが 『偏態パズル』 の一貫した姿勢だと思います。こりは三浦先生が得意とされるエンターテイメント系の学問手法の小説への援用であります。
どこの国でも似たようなものですが、日本では江戸初期に詩と小説文学がはっきり分離しました。松尾芭蕉と井原西鶴が詩と小説文学を成立させたわけです。彼らの文学を比較すれば詩と小説の違いがよくわかると思います。芭蕉は幽玄と雅に徹し、西鶴が描いたのは現世の、時には汚濁にまみれた諸相です。しかし彼らはほぼ同時代人です。同じ時代の空気を吸っていた。見ていた現実が違うわけではなく、現実の捉え方が違うということです。
以後、文学界はもちろん、歌舞伎などのエンターテイメント界を牽引したのは小説文学です。ほんの一握りの有名詩人を除いて、江戸時代の詩人たちは今と同様、苦労して詩集を自費出版していた。これもどこの国でもほぼ同じ現象を指摘できますが、詩は物語の母胎です。日本では和歌から物語文学が発生した。しかし詩と物語の分離以降、圧倒的に小説文学が読者の支持を集めるようになる。詩人たちが物語を怖れ、無意識にであれ小説に対してコンプレックスを抱く土壌がじょじょに形成されていった。
なぜそうなったかの理由は様々ですが、一つには詩人が、小説文学、つまり物語の本質について無知だからです。詩とはなにか、物語とはなにかを明確に認識すれば怖れはなくなる。詩と物語 (小説) の本質を把握できれば詩作品が中途半端な物語になることを怖れる必要はないはずです。しかし小説家が詩的文学を上手く援用しているのに対して、詩人たちは作品から物語性を排除することに躍起になっています。
文学金魚が総合文学誌であるのは、固着化してしまった文学者たちの認識を更新するためです。ジャンルをアプリオリなものとして捉えていたのでは、従来の文学を、形を変えて発表していくだけになってしまう。小説家に詩を、詩人に小説を書けと言っているわけではないですが、文学ジャンルを総合的に捉え、それぞれの本質を認識把握することは各文学ジャンルに新たな息吹を与えると思います。
三浦センセの作品内容は小説以外の文学ジャンルでは描き得ないものですが、ある種詩的でもあります。時に現象や観念のストラクチャーしか描かないわけですから。こう言っては失礼かもしれませんが、三浦センセの作品の意義は、いわゆる文壇ではなかなか理解されないかもしれません。しかし文学金魚にとっては貴重な作家であり作品なのです。
ほんで三浦センセは年末に、『サイゾー』 誌で 『お尻倶楽部』 の現編集長・前編集長とスカトロ雑誌関連の対談を行われたそうです。今月下旬発売の 『サイゾー』 誌に掲載されます。三浦センセはサプリメントやウーロン茶、ミミズ学の大家 (?) でもありますから、一度興味を持った事柄は徹底して調査・分析なさいます。今回の対談でまた新しいアイディアが浮かんだかも。三浦センセ、今年もよろしくお願いしますぅ。
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■ 三浦俊彦 連載小説 『偏態パズル』 (第 31 回) テキスト版 ■