池田浩さんの文芸誌時評 『 No.005 小説宝石 2013 年 09 月号』 をアップしましたぁ。特集は 『短篇で読む 人生の交差点』 です。ただ池田さんが 『 「短編で読む」 とあるのに、特集には連載すなわち長編とかシリーズの今回分も含まれていて、やや面食らう。特集への依頼をサボったようにも見えるからで、誌面は結構、妙である』 と書いておられるように、文芸誌の特集はちょっといいかげんです。
『小説宝石』 さんのようないわゆる大衆小説系文芸誌は、売れっ子作家たちの作品発表のためのペースメーカーの役割を担っています。小説の世界では特集を組むことよりも、作品発表が絶対的に優先されるのだと言ってもいい。こんなところにも文芸誌と詩誌の違いがありますね。
小説は基本的に物語です。人間の世界は物語がなくてはにっちもさっちもいかない。テレビドラマ、映画、演劇はもちろん、ドキュメンタリーの世界にも 〝物語指向〟 は確実に存在します。批評家は小説から作家の思想・観念などを読み解くわけですが、読者は言語化できないにせよ、それをあらかじめ物語から感受している。必ずしも小説文学に限定されるわけではないですが、〝物語論〟 は人間存在の根幹に触れるテーマです。
これに対し詩には物語がない。同じ人間存在の根幹に触れるテーマを表現するにしても、人間の生死、世界の始まりと終わり (神話・宗教や、最近では宇宙発生理論にまで及びます) の喩と措定できる物語は使用しないわけです。そのため詩人さんたちは詩とは何かを考えなければならなくなる。短歌の五七五七七や俳句の五七五は形式であり、物語論的深みなど求めようがない。自由詩に至っては形式・思想的制約をまったく持っていません。そのため小説界は 〝作品 (作家) 中心主義〟、詩壇は 〝詩概念中心主義〟 になる。
文学である以上至り着く場所は同じですが、小説界では理論的に考え抜かなくても、物語の本質に近接できれば優れた作家になることができる。これに対し詩壇では 〝詩とはなにか〟 を考え抜かなければ良い作家になれないでしょうね。定家、芭蕉、蕪村、子規、朔太郎・・・など、詩壇の骨格を為す詩人たちは皆理論家です。現象的に見ても、詩誌はあの手この手で俳句とはなにか、短歌、詩とは・・・という特集を組み続けている (笑)。文芸誌に特集は不要でも、詩誌には必要だということです。もっとも、今年優れていた詩集はなにかなどという状況論を繰り返しているようでは話になりませんが。
小説家は作品を書くことで作家として育っていくことができます。しかし詩人は考えた上で書かなければ良い作家になれない (批評を書くかどうかはまた別の話です)。どちらの道も険しいですが、ノウハウのようなものはあります。ただしそれを的確に教えることは難しい。教える側の能力よりも、学ぶ側の能力の方が遙かに重要だからです。業界ルールを含め、文学金魚にはそれらのヒントがあると思います。どうぞ活用してください。
■ 池田浩 文芸誌時評 『 No.005 小説宝石 2013 年 09 月号』 ■