長岡しおりさんの文芸誌時評 『 No.008 小説新潮 2013年09月号 』 をアップしましたぁ。長岡さんは 『Twitter などで文学金魚と交流が始まっている・・・作家の卵たちは皆、自身の作品について 「恋愛小説を書いています」 なり 「ファンタジイです」 なり、あるいは 「妖怪小説です」 といった自己申告をきちんとしていることが多い。これは考えてみれば、ずいぶん成熟した意識だと思う』 と書いておられますが、ほんとにそのとおりですねぇ。一皮剥けば実態は昔とあまり変わらないのかもしれませんが、石川くらいの世代だと、詩にも小説にも手を出して作風も一定しない作家の卵が多かったように思います。
長岡さんはまた、『この教育を施した主は、特定の誰それでは無論なくて、この情報化社会の 「情報」 そのものだろう。現在は本当に劇的に、人の知のあり方が変わってきている。情報は単なるデータではなく、すでに人の情念のあり様や欲望の方向性を定めるものと、再定義されている』 とも書いておられますが、これもその通りかもしれません。石川は長岡さんのような考え方をしてきませんでしたが、情報化社会、つまり情報の洪水の中で溺れないためには情報の取捨選択が必要で、それは必然的に自己の方向性を規定する要因になっているのかもしれません。
情報化社会では従来型の知の在り方が難しくなっています。吉本隆明さんが 〝知の密輸業者〟 と揶揄した、知を囲い込むことで特権的地位を占めようとする知識人はもはや成立しにくくなっている。じゃあ各芸術ジャンルで活発な交流があるかというと、そうとも言えないなぁ。情報の取捨選択によって自己の方向性を定めるという指向は、作家の視野を狭める方向にも働いているようです。むしろ保守化している面もある。特定ジャンルのプロであるという矜持にしがみつこうとしている作家が増えているような。
しかしそのような矜持は、今も昔も役に立たないちんけなプライドです。新しい芸術潮流は、そのジャンルについて考え抜くのはもちろん、他ジャンルから積極的に影響を受けることでしか生まれてこないものです。小説新潮さんの特集は 『幻視者の系譜』 ですが、アラン・ポーや宮沢賢治がその代表だとすると、彼らは詩や小説ジャンルのはみ出し者です。先行世代の模倣をすればそれなりの成功を収められる安定した時代は 1980 年代くらいで終わりました。90 年以降の世界は平穏ですが、内実は激動の時代だと思います。
■ 長岡しおり 文芸誌時評 『 No.008 小説新潮 2013年09月号 』 ■