金井純さんの 『親御さんのための読書講座』 『 No.026 12歳からの現代思想』 をアップしましたぁ。岡本裕一朗さんの『 12 歳からの現代思想』 を取り上げておられます。子供向けの哲学書に池田晶子さんの 『 14 歳からの哲学 考えるための教科書』 がありますが、『 12 歳からの』 に対する金井さんの批評は手厳しいですね。『子供たちにも学ばせたい、また学べるはずであるものは、くだらない業界用語ではなく、まずは大人が示す姿勢のはずだ。その姿勢をこそ 「哲学」 といい、そこで得られる確信を 「思想」 と呼ぶということを抜きに、何を教えられようか』 と書いておられます。要は地に足がついていないといふことでしょうね。
もうずいぶん前に吉本隆明さんが 『まわらぬ舌でデコンストラクションなどと言うな』 という意味のことを書いておられました。論争の名人だった吉本さんらしい言い方ですが、おっしゃっていることはよくわかります。明治維新以降、日本には無数の外来思想が流入しました。そのほとんどが一過性の 〝流行〟 で終わっています。もちろん流行であろうと日本文化になにがしかの影響を与えたのは確かですが、その思想の発生現場にまで遡って原理的に考えた文化人はほとんどいません。最近のポスト・モダニズム思想に関しても全くそうです。原理的に考えれば、日本人がポスト・モダニズム思想に驚かなければならない理由などないことくらい、すぐにわかりそうなものです。
吉本さんはまた 『生死の境を見ない思想は無駄だ』 とも言いました。不肖・石川は吉本さんの考えに賛成です。他者の思想を学ぶことは重要ですが、自分の思想というものは、一から考え抜かなければ有効なものにはならないと思います。昨日今日学んだ哲学用語を振り回しても無意味です。また思想は必ずしもヨーロッパ的な哲学書の体裁を整えていなくても良いものです。エセーや小説でも思想は表現できます。そのような原理的な思想体験をした人は、難解な哲学用語を使用する必要すら感じなくなるのではないかと思います。
あ、そう言えば漱石先生の 『我が輩は猫である』 の中で主人公の猫が、飼い主の苦沙弥先生は難しい文章をやたらと有り難がるクセがあるとからかっているシーンがあります。この記述は若き日の漱石先生が、難解な外国思想をやたらと有り難がる人だったことを示唆しています (笑)。しかし彼はそのような境地から抜け出した。その方法は単純なものでした。自分で一から考え抜いたのです。漱石先生の 『文学概論』 を読めば、彼がどれほど徹底した原理的思考者であったのかがよくわかります。
■ 金井純 『親御さんのための読書講座』 『 No.026 12歳からの現代思想』 ■