鶴山裕司さんの 『現代詩人論』 『 No.009 現代詩の創出と終焉 ─ 入沢康夫論 (上) 』 をアップしましたぁ。鶴山さんの現代詩の解説は明快です。『現代詩を自由詩の異名ではなく、戦前の詩の成果を継承・発展させたものでもなく、戦後になって初めて現れた真に新しい独自な表現だと定義すれば、その範囲は極めて狭いものになるだろう。そしてこのような狭義の現代詩を生み出した詩人が入沢康夫と岩成達也である。彼らは詩を思想表現のための手段としていない。また本質的には戦前のモダニズムやシュルレアリスムとは異なる原理で作品を構築している』 と書いておられます。『現代詩人論』 も、今回からいわば現代詩の本丸に切り込む評論が始まったわけですね。
不肖・石川、多くの詩人さんたちが戦後詩は終わったと公言しているのに、現代詩はまだ続いていると主張しているのは、「現代詩手帖」 さんが詩壇のセンター雑誌だと思っている詩人が多いからだといふ噂を聞いたことがあります。確かに 「現代詩手帖」 といふ誌名の雑誌で現代詩にトドメを刺すのは、ちょいと気が引けるでせうねぇ (爆)。ただもしそんなしょーもない理由で現代詩の総括が遅れているのなら、詩人ってまぢヘタレですよ。詩の世界って、詩集を出すにしても 99 パーセント自費出版でせう。詩人は本来、最も独立不羈の気概を持っているはずです。噂がもし一抹でも当たっているなら情けないことです。
石川は自由詩は前衛でなければならないといふ意見に賛成です。自由詩は欧米詩の翻訳・翻案文学から始まりましたが、明治・大正・昭和に渡って文学の最も先鋭的な試みを、たとえ未消化で性急なものであってもいち早く表現し続けてきました。日本文学の伝統的表現は短歌・俳句に委ねられていますが、自由詩が果たすべきなのは、前衛的認識や表現の開拓以外、ほかにあるのだらうかと思ってしまひますね。詩人さんたちは、もっととんがった方がいいですよ。不肖・石川は文学金魚の金魚詩壇で、自由詩本来の、勇気あるとんがった作品や批評を掲載していきたいと思っていますですぅ。
■ 鶴山裕司 『現代詩人論』 『 No.009 現代詩の創出と終焉 ─ 入沢康夫論 (上) 』 ■