小原眞紀子さんの 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』 (第 020 回) をアップしましたぁ。『野分』 の巻を論じて 『源氏物語』 の構造について考察しておられます。『源氏』 で野分 (台風) が効果的に使われているという指摘はその通りですね。小説が人間が作った創作物である以上、偶然、天候の急変が描かれることはありません。漱石の小説でも若い男女の主人公が対座して対立する時には、大雨が降るとか台風で 2 人が取り残されるとか、天候が効果的に使われています。
今回のコンテンツ後半の、枚数を含めて小説をタイプ分けし、その特徴を論じる小原さんの分析力は見事だと思います。エンターテイメント系小説の要がプロットで、純文学系ではそれが文体になるという指摘はその通りです。小原さんの言葉で言えば 『ある文体を読ませることは、すでに出来上がった別世界、彼岸に読者を連れてゆく』 ということです。『源氏』 が広義の翻案文学の側面を持っているという指摘にも石川は同意です。むしろ日本人はずっと、ほとんど傲慢なまでに強固な日本文化の基層の上に、呆れるほど無防備に海外文化を取り入れてきた民族だと言えます。短歌・日記文学・私小説などに日本文学の原理的な基層があるのでしょうね。
小原さんの評論の切れ味の良さは、創作者の書く批評だということから来ているような気がします。創作者は自己の作品を作り上げるために、いそいで先へと進まなければなりません。『源氏』 であろうと漱石だろうと、一生それにかかずらわっているわけにはいかないのです。読み込んで、読み尽くして、その宝を手中のものにして卒業する。それが創作者が他者の作品を読むときの正しい流儀でしょうね。小原さんの 『源氏』 論には、研究者が気づいていない、作家による直観的真理がたくさん含まれていると思います。
■ 小原眞紀子 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』 (第 020 回) ■