No.034 『安井浩司 「俳句と書」 展』 開催記念コンテンツ、山本俊則さんの連載評論 『安井浩司墨書句漫読』 『 No.017 『万緑や総身も輪の積み上げぞ』』 をアップしましたぁ。山本さんが取り上げておられる 『万緑や総身も輪の積み上げぞ』 は難解な作品ですねぇ。すらりと読めるのですが、読んでから 『うにゃっ?』 と考えてしまふような俳句です。変な言い方ですが、俳句らしい難解作品かもしれません。一つ一つの単語は平明なのですが、取り合わせると難解になる。其角や蕪村にもこういった難解句はあります。
でも不肖・石川、山本さんのこの句の読解は正鵠をついていると思います。また 『俳句文学では、自己と言葉の間に適切な距離を取らなければ良作を生み出せないのは確かである。しかし子規の明治初期ならいざ知らず、そのような客観写生的態度は今では俳句の初歩だ。・・・俳句を 〝現代文学〟 として捉える作家の場合は、俳人固有の観念的主題をいかに客観化して表現するのかが次のステップになると思う』 といふ山本さんの言葉は、その通りだと思います。やっぱ有季定型俳句だけぢゃ、面白くないですよねぇ。
前にもちょい書きましたが、俳壇のヒエラルキーは相当に堅固です。若い頃から大結社に所属して身を粉にして働かなければ、俳壇で注目される可能性はかなり低い。無所属だけどちょっと才気があるのでちやほやしてもらえるのは、せいぜい 40 代まででしょうね。気がつくと俳壇の要職と呼ばれるような仕事はほぼ全て、同世代の大結社所属俳人たちが占めるようになっているはずです。生身の人間なら気にならないはずがない俳壇政治です (爆)。
『やらない』 と 『できない』 は、〝結果としてアクションを起こさない〟 といふ意味で現象的には同じことです。しかしその内実は絶対的に違います。〝その気になれば大結社に所属して頭角を現すこともできるけど、やらないんだ〟 と思っているようでは無為に時間が過ぎていきます。趣味で俳句を書いているなら別ですが、プロの俳人の自負があり、かつ大結社に所属しないのなら、どこかの時点で 〝大結社には所属しない。それはこういう理由である〟 と考え抜いた結論を出さなければなりません。
金魚屋はもちろん、石川も伝統俳句と前衛俳句の対立などあまり意識したことがありません。文学の世界に与党と野党のような制度的区分があるわけがない。しかしあえて 〝対立構造を作る〟 ことは伝統・前衛系俳句双方にとって利益になるだろうと思います。俳句界が活性化するからです。その意味で 〝俳壇は存在しない〟 といった言説はたわごとです。〝俳壇は存在し、こういう問題を抱えている〟 と明言すれば自ずから作家の輪郭ははっきりします。俳壇に片足突っ込んで有名な賞も欲しいし新聞俳句欄の撰者もやってみたい、でもカッコイイ独立不羈の前衛俳人とも呼ばれたいでは、日々草の根的な努力を重ねて俳句初心者を指導している伝統系俳人はもちろん、多くの人からも 『甘いよ』 と突っ込みを入れられてしまふでしょうね。
■ 山本俊則 連載評論 『安井浩司墨書句漫読』 『 No.017 『万緑や総身も輪の積み上げぞ』』 ■