* 神経ネットワーク(左)と銀河団
『無名草子』は、突然、終わってしまう。しかもそれは未完のように見えながらも、注意深く読んできた読者には綿密に計算されたものと映るような突然の幕切れなのである。このいわばテクストの「断絶」が生み出すものとは何だろうか。それは強大な遠心力である。そしてこの遠心力こそ、これまでに見てきた『無名草子』の特性を生かすために、ぜひとも必要なものなのではないか。
読者は『無名草子』の紙面から顔を上げて、まず何を思うだろうか。すでに見たように、もし読者たちが「モデル読者」の像に一致しており、自分たちと女房たちの読書体験や思想に多くの共通点を見出だしていたのなら、彼らは『無名草子』を読み進めている段階で、つとに女房たちの仲間入りをしてお互いの意見を交換しはじめていただろう。
もちろんこれを行うには、誰かと一緒に『無名草子』を読んでいる必要がある。だがこの条件は、当時の読書をとりまく環境を考えればまったく難題ではない。そもそも和歌という、コミュニケーションの道具としての性質を強く持った形式が文学の根元にある以上、それが物語になっても、あるいは『無名草子』のようなテクストになっても、複数の読者がそこに同時に参加することはむしろ自然な形であろう。当時、読書は孤独な作業ではなかったのである。
それでは、そのようにして『無名草子』の周りで喧々囂々と議論を闘わせてきた読者たちは、肝心の『無名草子』がふと幕切れを迎えたのを見届けて、どのような行動に移るのだろうか。おそらく、自分たちの気のすむまで、議論を続けただろう。女房たちが挙げた作品や人物、または月や花の美しさについて、何事かを付け加えたり、あるいは女房たちが見落としている点を指摘したかもしれない。
そしてそのうちに、読者たちは『無名草子』そのものを批評しはじめるのではないだろうか。少なくとも私たちが知るかぎり、『無名草子』はそれまでに例のないような書物だからである。
ここで、『無名草子』の最後に書名が挙がった『大鏡』について一言しておく必要があるだろう。『大鏡』は十二世紀の前半に、いまでは忘れ去られた作者によって書かれた、道長を中心とする藤原氏繁栄の歴史を綴ったいわゆる「歴史物語」である。もちろん、国家の公式事業として編まれた「六国史」のような史書の類とはまったく違う。何故なら、『大鏡』に描かれるのは大宅世継と夏山繁樹という二人の翁が、実際にその目で見た歴史だからである。しかもこの二人はそれぞれ百九十歳と百八十歳なので、たっぷり二世紀の歴史を語ることができてしまうわけである。
ややこの世の人ならぬ感じのする主人公の存在と言い、語りを中心とする点と言い、『無名草子』が『大鏡』の影響を受けて書かれたことにはまず異論を挟む余地がない。そしてこのようなテクストの構造はその後も様々に受け継がれ、例えば能における「夢幻能」の成立などにも寄与していると考えられるのである。
夢幻能は、霊的な存在が登場することが特徴である。旅の僧などの主人公が、ある場所で、ある人物に出会い、その話を聞く。最初は、その人物の手になる物語に過ぎないと思われるのだが、そのうちに、どうもいま話をしているのはその出来事の当事者なのではないか、という気配が徐々に強まってくる。そして能の後半になると、その人物は亡霊や精霊としての本来の姿を現し、舞によって心情を表現するのである。以上のような夢幻能の典型的な形式は、すでに明らかなとおり、得体の知れない女房たちの話を聞く老尼の記録である『無名草子』に酷似している。
さて、この段階で『無名草子』に生身の作者を措定することにどれほどの意義があるかは別として、作者と目される俊成卿女が、どのような認識をもって『無名草子』を書くに至ったかについて、すこし考えてみてもよいだろう。
俊成卿女は、まさに文学の英才教育を受けることのできる立場にあった。彼女はあの藤原俊成の孫であり、後には養子となっている。だからある女房が作中で「俊成のような身分になって勅撰集を編んでみたい」などと言っているのは、もし作者を知っていれば思わず笑ってしまう場面だし、考えようによっては相当に嫌味な台詞でもある。俊成は『千載和歌集』の撰者であったほか、歌論書の『古来風躰抄』も著しており、紛れもなく当時の歌道の第一人者であった。子には藤原定家がいる。つまり定家にとっては、俊成卿女は姪である。この定家は『新古今和歌集』および『新勅撰和歌集』の撰者であり、『毎月抄』や『近代秀歌』など著書も多い。多いどころか、現代の我々が定本として手に取っている古典作品の大部分は定家が書写したものがその元になっているのだから、古典文学にとって、定家はもはや危険なほどに重要な人物なのである。
そしてこの定家が牽引した時代は、もはやそれまでの時代とは一線を画するものであった。和歌の様式を「古今歌風」と「新古今歌風」に分けることがあるように、定家の世代は、本歌取りの手法などを通してそれまでの文学的な蓄積を縦横に利用しながらも、それを超克し、新たな正典を打立てようとする気勢に突き動かされていた。それは明治時代に入り、新進気鋭の俳人であった正岡子規が紀貫之に向けて「下手な歌よみ」と言い放ったあの有名な挿話を思い起こさせもする。
定家も、子規も、貫之が活躍した平安中期における文学の爆発的な発展とその真価を測れないほどの間抜けではないだろう。むしろ彼らは、『古今和歌集』という書物とそれを生み出した時代が何百年にもわたって権威化されつづけていることを疑問視し、何一つ革新しようとせずその権威に盲従することで保身を図っている同時代の輩を批判したかったのである。ましてや子規の時代はもちろん、定家の時代でさえ、貫之の時代とは政治的にも文化的にも大きく変わりはじめていた。文学は生きものであり、風通しが悪くなれば死滅する他はない。
『無名草子』もまた、夢幻という衣裳を身にまとうことで権威から自由になった女房たちが、神聖視されてきた過去の物語どもを好き放題に論じる書として見ることができる。『大鏡』は歴史を対象にそれを行い、かしこき辺りの私生活をさえ、翁の思い出の一つとして開陳してしまった。それを受けて、今度は文学を対象にしたのが『無名草子』である。過去に目を向け、整理し、評価する。この過程を通して自らの思想に近づいてゆこうとすることこそ、鎌倉初期という時代の精神性であろう。もはや平和な時代は去り、貴族たちは取り残された存在であった。テクストだけが、彼らに変わらぬ居場所を提供してくれるのだ。
では『無名草子』の女房たちが描き出してくれた文学の世界とはどのようなものだろうか。それはまさしく一つの宇宙である。平安時代に作られた数多の和歌や物語は、それぞれに銀河系を形成している。銀河が無数の星々で形づくられているように、個々の作品はおのがじし意味を持ち、連想を生む記号のネットワークによってなりたっている。だが厳密には「個々の作品」など存在しない。それらのすべてが、蓄積された記憶という紐帯によって、つまり間テクスト性によって、はっきりと結びついているからだ。
冒頭に掲げた写真は二つのネットワークを捉えている。右側はお互いの重力によってその位置にたまゆら留まっている銀河団である。対してそれにそっくりな左側の風景は、私たちひとりひとりの脳内にはびこる神経ネットワークの姿である。この両者の驚くばかりの相似は、むしろ私たちが考察してきた当代人の文学のネットワークが、いかに自然で根源的な構造を有しているかということを示してくれているように思われる。
鎌倉という新しい時代を迎えたとき、前へ進むには、過去の清算が必要であった。歴史については、歴史物語という書物がそれをやってのけている。では文学はどうだろうか。そこで『無名草子』が書かれることになった。和歌や物語によってじゅうぶんに鍛えられた仮名は、すでにそのような難事業をやすやすと達成できるだけの表現力を獲得していた。漢文では、物語の歴史を論じることなど到底、不可能である。そしてあたかもこのことを強調するかのように、『無名草子』からは「漢字の性」である男性までもが排除されている。武門が隆盛する鎌倉以降、時代は再び男たちのものになりつつあった。してみれば『無名草子』は、日本独自の知的ディスクールを構築するためには欠くべからざる存在であった女たちの、文学への惜別の辞でもあったのかもしれない。
大野ロベルト
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