鶴山裕司さんの連載評論 『現代詩人論』 『 No.007 終わりと始まり-飯島耕一論 (中) 』 をアップしましたぁ。相変わらず抜き身の刀で、兜の上から頭をかち割るような評論をお書きになりますなぁ。遠慮のない厳しい内容ですが、詩壇外でも通用する数少ない評論だと思います。飯島さんについて予備知識がなくても、鶴山さんの評論を読めばどういった詩人か理解できますよ。
詩の世界に限らず小説の世界でも、文学好きと言われる若い人たちが読んでいるのは、今現在売れている作家が大半を占めるようです。戦後作家はもちろんのこと、明治大正期の作家は遠い遠い存在といふことでしょうね。もちろん文学の歴史を振り返れば、そう簡単に行かないことはわかりきっています。問題はむしろ現存先行作家の方にあるでしょうね。
言いにくいですが、鶴山さんが 『現代詩人論』 で取り上げている詩人を熱心に読んでいる読者は激減しています。これはあくまで例であり、小説の世界でも同じです。つまり中年から老境に差しかかろうとしている多くの作家が、生きながら忘れ去られつつある状況が生じている。若さは特権ですが、このままだと彼らもいずれ同じ道をたどることになる。旺盛に執筆している現役作家で、かつ、ある程度売れていなければ、すぐに忘れ去られてしまいます。
ものすごく杓子定規に言えば、その原因は近過去を含めた作家の方向性が間違っていたのか、現在の過去文学の読み方が間違っているのかの、いずれかになります。不肖・石川は、その両方だと思います。中年だろうと老境だろうと、作家は死ぬまでいい作品を書くことができる可能性を持っている。かつて一時代を築いたのならなおのこと、もっともっと奮起していただきたいですね。
また過去作品のなにが誤りで、なにが継承すべき遺産なのかを明確にする批評が現れなければ、『文学的価値』 などなにかの冗談、売れて目立っている作品が良作という状況がずっと続くことになる。つまり文学は、消費ヒット商品となんら変わらないといふことになってしまうわけです。でも出自というものはなかなか変えられないと思います。有名になりたい、金が欲しいと思って文学者を志した人は少ないはずです。どこかで文学独自の価値規範を信じていなければ、文学は一生の仕事にはなりえないでしょうね。
■ 鶴山裕司 連載評論 『現代詩人論』 『 No.007 終わりと始まり-飯島耕一論 (中) 』 ■