No.024 『安井浩司 「俳句と書」 展』 開催記念コンテンツ、田沼泰彦さんの 『 No.007 『声前一句』 の眼』 をアップしましたぁ。俳句結社誌 『海程』 の主宰であり、現代俳句協会会長や朝日俳壇撰者などの要職を担われた金子兜太さんを取り上げておられます。あ、そうそう、兜太さんと 『海程』 は俳壇的には前衛俳句に属する (属していた) のでしたね。政治参加 (アンガージュマン) 抜きの実存主義を俳句に取り入れるのが、そんなに新鮮だったのかなぁ。ただま、 〝俳壇的には〟 といふ言い方はいつもクセノモなわけでして (爆)。
新興俳句や社会性俳句、富澤赤黄男・高柳重信の俳句が等しく前衛だというのなら、まず 〝前衛俳句の定義〟 が必要です。一時期であれ新たな表現を試行した (生み出した) 作家を前衛と定義するなら、俳句史に名を残すほとんどの作家が前衛ということになります。しかしそれでは有用な定義にならない。
また俳壇的には伝統俳句 (有季定型俳句) と前衛俳句の対立や勢力争いが大問題のやうですが、外の世界から見れば些事です。20 世紀後半に出現した前衛俳句は、俳句文学の誇るべき作品成果です。それを無視すれば現代俳句はとたんに色あせてしまう。前衛俳句の衰退は魅力的な作品を生み出せない現役俳人たちの問題であり状況のせいではない。
それに今、自分なりの定義と覚悟をもって 〝前衛俳人〟 を自負する作家が何人いるのか。重信的前衛俳句自体が守り継承すべき 〝伝統〟 として形骸化しているのではないのか。先師の轍を踏み、結社を作って勢力拡大に血道を上げるなら、その本質は伝統俳句となんら変わらない。伝統化した前衛など前衛の名に値しません。
俳人が若い頃に前衛的な試行をするのは見飽きた光景です。いずれちょっと毛色の違う伝統的俳句に回帰していく未来が見えている。多少の才気や新たな試行など、すぐに俳句の海に飲み込まれてしまうことは俳人が一番よく知っているはずです。それなら最初から伝統俳句に腰を据える方が正しい。不肖・石川は老俳人といっしょに炬燵に入って、『俳句と戦うのは無駄だ。俳句は結局、花鳥風月なんだよ』 と言われた方が、半端な前衛俳人の怪気炎を聞かさせるより納得できますね。
■ No.024 『安井浩司 「俳句と書」 展』 開催記念コンテンツ 田沼泰彦 『 No.007 『声前一句』 の眼』 ■