鶴山裕司さんの連載評論 『 No.006 終わりと始まり - 飯島耕一論 (上) 』 をアップしましたぁ。不肖・石川、自由詩の世界にはそれほど詳しくないのですが、鶴山さんの批評は独自ですねぇ。取り上げておられるのは現存詩人やちょっと前まで大活躍されていた詩人たちなのですが、その仕事に対して明確な距離がある。はっきり言えば、ある時代が終わったという確信の元に書かれている。現存の偉い先生たちには本当のことは言わず、てきと~にお茶を濁してお付き合いする方が、現世ではなにかといいことあるんですけどね (爆)。でも勇気あるなぁと思います。こういう原理的な仕事がどんどん現れれば、文学の世界は変わりますよ。〝次回に続く〟 式の状況論をいくら書いてもしょーがない。
文学の世界って、要するに人と作品なんです。ある作家が現れ優れた作品を生み出せば、それまでの流れがガラリと変わる。夏目漱石は確か、〝御維新から明治 40 年までは過渡期でありそこで生み出された作品は読まれなくなる、この 40 年間が長いと感じるのは同時代人の感覚であり、後世から見れば一瞬である〟 という意味のことを言っています。不肖・石川の感覚も同じですね。1980 年代から 2020 年代くらいまでは過渡期かもしれない。自由詩の世界で言うと、戦後詩・現代詩の時代まではかろうじて数人の詩人を拾うことができると思いますが、それ以降の作家は怪しい。あくまで石川の感覚ですが。
ほんで鶴山さんには抒情詩と評論の連載、それに不定期で骨董エセーをお願いしています。『連載、お疲れさまです』 とメールしたら、『連載は、この一ヶ月、いかに自分が仕事していないかを思い知ることができる機会なので、こちらこそありがたいです。仕事遅々として進まずじっと手を見るの心境ですね』 というお返事が戻ってきましたぁ。
■ 鶴山裕司 連載評論 『 No.006 終わりと始まり - 飯島耕一論 (上) 』 ■