池田浩さんの文芸誌時評 『No.010 新潮 2013年06月号』 をアップしましたぁ。四方田犬彦さんの 200 枚の長篇評論 『谷崎潤一郎――映画と性器表象』 を取り上げておられます。不肖・石川、『月島物語』 あたりから四方田さんの本を読ませていただいていますが、素晴らしいセンスをお持ちの批評家です。京都・鎌倉だろうと月島だろうと、自分が住んだ土地で一冊本を書くのは難しいですが、それを簡単にやってしまわれる。書くことを前提に転居しておられるという感じです。
池田さんは 『文芸誌のページが力を持って見えるとき、それは現在まず例外なく 「映像」 が介在している』 が、『映像に寄り添って力を得ようとする、というのも文学にとっては対処療法に過ぎない。文学・・・が、恐らく復活を遂げるときには、映像を規定する観念を抱えているに違いあるまい』 と書いておられます。映像の洪水にさらされている 21 世紀には、文学も 〝絵が見える〟 方向に進むと予測できますが、それは従来の映像的文学とは質が異なるということです。現代的な 『映像を規定する観念を抱え』 る必要がある。
文学は言うまでもなく映像のない文字表現です。それが映像を抱える時には 〝事件〟 が介在しています。この構造を意識的に援用しながら、現代的要素を加えていく必要があるということでしょうね。金魚屋は総合文学を掲げており、その中には演劇も含まれます。演劇は人間が生み出した最も古い芸術であり、金魚理論的に言えば、世界が大きく変わる時には基層となる芸術から変容していく可能性が高い。
現在、文学と演劇は奇妙に断絶されていますが、本来はそうあるべきではないでしょうね。現代演劇と文学の違いは、事件に意味が付加されているか、いないかの違いでもあります。そして現代は、個々の事件に決定的意味はないという方向に進んでいると思います。つまり映像の連鎖とその全体構造が意味を形作る。総合文学的な視点は必要だと思います。
■ 池田浩 文芸誌時評 『No.010 新潮 2013年06月号』 ■