鶴山裕司さんの連載評論 『現代詩人論 No.005 西方東語 ─ 渋沢孝輔論 (後篇)』 をアップしましたぁ。8月に入って文学金魚では、音楽や映像コンテンツを立て続けにアップして、とぉっても楽しい雰囲気ですが、それでも連載の締め切りは来るのです。連載しておられる執筆者の皆様、くれぐれも油断なされぬやうに。あ、石川は 『すんげぇ大変だった』 とかいふグチは聞きませんぞ。みんな大変なのであります。原稿書くのは、ほかの仕事より大変で偉いと考えている文学金魚の著者の方はいないと思いますけんど (爆)。
そんでせっかく 『金魚詩壇』 を作ったので、このコーナーをもっと拡充したいと思案中です。メディアにはそれぞれ特徴がありますが、文学金魚は毎日更新のウェッブ上の文芸誌ですから、まずコンスタントに書ける著者でなければならない。文学金魚の特性上、年に数回、渾身の原稿を書いていただいても、あまりその著者は目立たないでしょうね。申しわけないですが、こういうのは相性です。一作一作に全精力を込める寡作タイプ作家の方は、商業誌、同人誌を問わず、紙メディアの方が相性がいいと思うわけです。
で、加えて内容であります。しっかしこれも説明しにくいなぁ。ぶっちゃけて言えば、ほとんどの方が 『文學界』 の原稿掲載基準がわからないように、文学金魚の掲載基準もわからないと思います。不肖・石川は編集人ですが、自分でもそれがどういふものか、ちゃんと説明するのは難しいです。しかし少なくとも明確な思想的 (感性的でもいいですが) 確信がある作家、あるいは未知の才能を持っていると感じられる作家さんは、文学金魚で全力でバックアップしたいと思います。
そんで文学金魚の金魚詩壇では、大前提として 〝現代詩〟 や 〝戦後詩〟 という詩のジャンルを取り払って、詩を 〝自由詩〟 として原理的に捉え直そうとしています。これは文学金魚がメディアとして打ち出している詩のヴィジョン、あるいは長期的パースペクティブです。今のところ理論 (詩論) としてそういった原理的探究を行っているのは鶴山さんだけですが、有名無名を問わず、優れた実作者で理論家の詩人に御協力をお願いしたいと思っておりますですぅ。
■ 鶴山裕司 連載評論 『現代詩人論 No.005 西方東語 ─ 渋沢孝輔論 (後篇)』 ■