小原眞紀子さんの連載評論 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』 (第016回) をアップしましたぁ。今回から 『玉鬘十帖』 の読解に入ります。小原さんが書いておられるように、『玉鬘十帖』 は 『この十巻以外の源氏物語が書き上がってから、後で書き加えられたものではないか、という説』 があります。この 〝説〟 については千年間物証が見つかっていない以上、今後も証明は不可能だと思います。しかし無意味だとも言えません。
いわゆる 〝仮説〟 は新たな読解を導き出すためにあります。仮説によって点と点が結びついて新たな線になるような読解が成立するならば、仮説は俄然、説得力を増します。だから学問の世界では、ちょっと突飛な仮説でも一応は検討してみる価値があるわけです。ただ仮説によって誰もが得心するような新たな読解が導き出せない場合、それはやはり仮説の域に留まります。『玉鬘十帖』 が後から加えられた可能性は高いですが、『源氏』 を 『複数で書いたのではないかとか、本当は男が書いたのではないか』 という説は、やはり説得力がないでしょうね。
そんで小原さんは 『玉鬘十帖』 に、『小説』 から 『物語』 への推移を読み解いておられます。『玉鬘十帖』 以前は、『物語から小説へ、というのが源氏物語の大きな流れ』 でした。しかし 〝玉鬘〟 と呼ばれる姫は、小説として成立・確立されてしてしまった 『源氏物語』 という 『 「小説」 の中から生まれている。けれども姫の置かれた境遇が突然、民話・伝承の 「物語」 の様相を帯びる』 わけです。
このあたりも 『源氏物語』 が古典中の古典と呼ばれる理由でしょうね。物語作家である紫は、『源氏』 で物語批判の物語をも書いているわけです。文学金魚では大野ロベルトさんが、物語批判物語である『無名草子』の評論を書いておられますが、平安末から鎌倉初期の読者たちは、『源氏物語』の機微を的確に理解していたようです。
■ 小原眞紀子 連載評論 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』 (第016回) ■