小原眞紀子さんの連載評論 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語 (第 015 回) 』 をアップしましたぁ。『朝顔』 の巻を取り上げておられます。不肖・石川は 『源氏物語』 を読み込んだわけではないですが、非常に刺激的な批評が展開されていると思います。『究極的なテーマとは物語の 「全体性」 によって、つまり物語が完成したときに 「構造」 そのものによって読者に伝わるものです』 という小原さんの読解はその通り。傑作や名作について考えさせられます。テクニックを駆使した美文であろうと、作品全体の構造 (思想) が明確でなければ、優れた作品にはなりません。
確か森鷗外が、式部の文章は悪文だと思うとどこかで書いていたと思います。鷗外は僕らより遙かに江戸期以前の文章に通じていましたから、彼の指摘は文語体の肉体感覚に即したものではないかと思います。それは 『源氏』 と 『枕草子』 を比較しても明らかではないでしょうか。『源氏』 は 『枕草子』 のような美文で書かれていませんが、その全体構造は非常に優れている。小原さんのテキスト曲線に示されているように、光の心は男性性から女性性まで、天上から地上までを大きく揺れ動きます。それを導くのが光を取り巻く女性たちです。
光の時代が終わり、物語の本質が露わになるという意味で 『朝顔』 の巻はとても重要です。『源氏は、彼岸にあって手の届かなくなった藤壺と、この世にあってもやはり神仏に心を寄せて手の届かない朝顔とを、ある意味では手が届かないがゆえの落ち着いた心で慕うことができている』 という指摘は、この物語の核心を衝いているでしょうね。色好みは物語の構造を作り上げるための小道具でもあるわけです。
■ 小原眞紀子 連載評論 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語 (第 015 回) 』 ■