小原眞紀子さんの 『文学とセクシュアリティ-現代に読む源氏物語』 (第014回) をアップしましたぁ。『松風』 と 『薄雲』 の巻を取り上げて母系について論じておられます。小原さんは 『藤壺入道の宮が亡くなることで母を失うのは冷泉帝だけではなく、源氏もまたそうなのです。源氏は恋人を失ったわけですが、同時に母の面影も失いました。実はこの段階で、語るに値する源氏のラブ・アフェアはすべて終了してしまうのです』 と書いておられます。『松風』 『薄雲』 の巻に派手な要素はありませんが、『源氏』 における重要なターニングポイントです。
すべての古典は多面的であり、時代ごとに当たる光の角度が変わるたびに新たな顔(読解方法)を見せてくれます。ただたいていの新たな読解は、現代的思考を補佐する資料として古典を活用する場合が多い。あまり優秀ではない批評家が、他者の言葉を引用することで自分の考えを正当化するようなものですね (笑)。それはそれで古典の重要な存在意義なのですが、古典には別の側面があります。ある動かしがたい原理を表現しているので、言葉使いや風俗が恐ろしく古びてしまってもその新鮮さを失わないのです。
小原さんは 『源氏物語において重要なもの、すべてのリビドーを生み出すと考えられているものは、母-子の関係であり、父-子の関係は付け足りに過ぎません。その対称性は、須磨・明石の巻と、シェイクスピアの 「テンペスト」 にそのまま当てはまります』 と書いておられますが、この思考は面白いですねぇ。『文学とセクシュアリティ』 では女性的なるものをエクリチュール・フェミニンとして、男女の性差に関わりのない人間存在の本質として捉えています。『源氏』において主人公は光源氏であり、かつ実質的な主役が女性たちである理由は、そのあたりにあるのでしょうね。
■ 小原眞紀子 『文学とセクシュアリティ-現代に読む源氏物語』 (第014回) ■