長岡しおりさんの文芸誌時評 『No.007 小説すばる 2013年04月号』 をアップしましたぁ。『小説すばる』 さんは 『思い出は、教科書とともに』 といふ特集を組んでおられます。長岡さんがお書きになっているように、読書は今や子供たちの自発的行為 (楽しみ) ではなく、学校の教科書が原体験のようです。金魚屋では金井純さんが 『親御さんのための読書講座・中学受験篇』 を連載しておられますが、同じ現象を反映していますね。理科や数学と同質の勉強として読書があるといふことです。
不肖・石川、子供たちが読書しなくなったのをそれほど悪いことだと思っていません。人間の学習キャパシティはいつの時代でもだいたい同じだと思うんですね。現代では読書以外に学ばなければならないことがたくさんあります。『今の若者は読書しないから漢字を知らない』 と嘆く年寄りは、パソコンが使えなかったりするわけです。江戸時代の人を僕らは無教養だと思いがちですが、彼らは自分の職業に関して僕らが及びもつかない知識と技術を持っていた。現代のように知が多様化した社会では、読書の重要性が相対的に下がるのは当たり前です。そのかわり現代の子供は昔はなかった新しい知識を身につけている。
でもね、奇妙なことが起こっている。どなたかが時評で書いていましたが、文学者の平均的能力がすごく下がっているのは確かです。小説や短歌の世界では一昔前の現代詩の実験を焼き直したような作品が現れているのですが、その理由はどこにあるのかと考えてしまいます。もしかすると知識不足なのかもしれない。作家がある日突然現代詩的な実験作品を読むと、それがとても新しく刺激的なものに見えてしまうかもしれません。それを模倣すると新しいことをやったような気になる。読者は作家よりも勉強不足の方が多いですから、彼らも 『おお!』 と驚いてくれる。まさかね、と思いますが、そんなしょ~もない理由が小説や短歌の現代詩的言語実験流行の理由でなければいいのですがぁ。
■ 長岡しおり 文芸誌時評 『No.007 小説すばる 2013年04月号』 ■