池田浩さんの文芸誌時評 『No.006 小説 野性時代 第113号(2013年04月号)』 をアップしましたぁ。『京都で物語におぼれる』 といふ特集を取り上げておられます。池田さんは 『「京都」とはすでに何事かのメタファーなのだ』 と書いておられますが、正しいでしょうね。実在の場所と文学者が内面に抱えるその場所の意味は違います。作家が京都に取材旅行に行くとしても、それは内面の 〝京都という観念〟 を肉付けするためです。取材旅行自体は一般の観光旅行となんら変わらない。表現主題を抱えていなければ、〝観光資源〟 に寄りかかった底の浅い文章を書いてしまうことになります。
文学金魚の執筆陣には、文学的雰囲気 (アトモスフィア) を嫌うお方が多いです。大詩人、大作家がどこで何をしたといふ話題については、たいては 『楽しいヨタ話だね~』 で終わってしまひますし、いわゆる 〝文学的苦悩〟 についても、『作品が良くなければ、それはフツ~の悩みとか病気に過ぎん』 で片付けられてしまひます (笑)。文学金魚執筆陣の中では、池田さん的な京都の捉え方が主流だろうなぁ。『京都という場所に降り積んだ数々の歴史的事実をテキスト化したものは、相当の厚みをもって、別の 「京都」 というテキスト空間を出現させるに至っている』 といふことであります。
この 『「京都」 というテキスト空間』 は、不肖・石川がつらつら考えても、汎日本的なものを含んでいると思います。京都は特別な場所です。それは日本が特別な場所であるといふ観念にどこかでつながっている。日本人は浮薄なところがあります。海外ブランドモノを熱愛し、実存主義からポスト・モダニズム思想に至るまで海外思想に熱狂します。でも誰も外来風俗や思想で日本文化が破壊されるとは考えない。流行が過ぎるとどうせすぐ忘れてしまうからです。要するに日本文化の底は傲慢なほど固い。日本的内面を意識していれば、楽しい京都旅行に行ってもそれを実感できるでしょうね。
■ 池田浩 文芸誌時評 『No.006 小説 野性時代 第113号(2013年04月号)』■