池田浩さんの文芸誌時評 『No.005 群像 2013年04月号』 をアップしましたぁ。『群像』 さんもこのところ元気がないんですよねぇ。不肖・石川、文学を愛する者の一人としてちょっと心配であります。池田さんの今回のコンテンツも、そのあたりを論じておられます。
純文学文壇といふものは確かにあります。詩 (短歌・俳句・自由詩) と違い、小説の世界では有名出版社から出版されている雑誌の新人賞を受賞したり、そこから本が出ていないと作家として一般社会で認知してもらえないという暗黙のルールがあります。もちろん本が売れれば話は別ですが、たいていの場合、作家の卵さんはこの 〝表門〟 から作家になろうとするので出版社や選考委員の意向を強く意識せざるを得ないわけです。詩の世界では作品集一冊出せば誰でも詩人 (俳人・歌人) ですから、そこには大きな違いがあります。
でも純文学文壇の中心となる作家で、一般読書界に名前が知れ渡っている作家さんは一握りです。いわば純文学業界内有名人、極端なことを言えば特定雑誌内有名作家さんもいらっしゃいます。しかしどうもこのシステムがうまく機能していない。大衆文学はそれなりに売れていますが、純文学は大勢としては徐々に衰退していくばかりです。純文学の 〝表門〟 を通って芥川賞に辿り着くまでに力尽きてしまう新人作家さんも多い。何かの新人賞を受賞してデビューしたとしても、いわゆる 〝文壇〟 を意識しないで読者だけを気にしている作家の方が図太く生き残っているように見えます。
みんな〝物語〟が大好きです。映画、テレビなど、物語がなければにっちもさっちもいかない。でも純文学系の雑誌と作家さんたちはそれに背を向けているような感じです。純文学だから売れないのではない、つまらないから売れないのだと、はっきり読者から引導を渡されかねない状況に近づいています。
新しさというものは相対的なものです。今まで誰も見たことがない、読んだこともないものなど、市場に投入してもそっぽをむかれてしまうのがオチです。他ジャンルと比較すれば明らかなように、小説の最大の強みは多くの人の心を巻き込んでいく物語にあります。それなくして小説が再び勢いを取り戻すことなどないと、不肖・石川は思うのでありましたぁ。
■ 池田浩 文芸誌時評 『No.005 群像 2013年04月号』 ■