釈照太さんの詩誌時評 『No.008 角川 『俳句』 2012 年 11 月号』 をアップしましたぁ。『第58回角川俳句賞』 の作品と選考過程を取り上げて、俳壇の構図のようなものも論じておられます。角川俳句さんは、どうも有季定型俳句専門誌のようであります。
前にブログで書いたことがありますが、メディアが無色透明で中立公正であるといふのは幻想です。各メディアにはそれぞれ特徴があります。それが悪いといふことはまったくなくて、各メディアがそれぞれの方針を貫くことで業界は活性化するわけです。ただ俳句や短歌、詩のようにメディアが少ない業界では、自ずと各メディアの特徴が目立ってしまふということはあると思います。
金魚屋は有季定型の味方でも前衛俳句の味方でもありません。そんなもん、どっちゃでもよろし (笑)。ただ俳句はなにをもって文学なのか、その点を明らかにしたいとは思います。ある意味、俳壇ってとても面白いところなんです。文学者が (一握りですけど) 原稿料でご飯を食べられるようになったのは、たかだかここ 100 年くらいに過ぎません。長い歴史から言えば、原稿料で飯が食える状態の方が異様なわけです。
文学は豊かな社会の上澄み=趣味と言いきってしまふと、なんとなく俳句の姿が浮かんできます。絶対に嫌みで言っているわけではないんです。俳句は近代よりも古い芸術であるからこそ、ある本質をいまだに維持していると思うわけです。
ただ人間は環境の動物です。自分が所属するコミュニティーに慣れてしまうと、そこが世界だと認識しがちです。俳壇の姿は正しくもあり、間違ってもいる。詩壇、小説文壇にも同じことが言えます。要はその狭いコミュニティーをいかに相対化して、より自由な表現者となれるのか、表現の場を作れるのか。ふりふりお尻を振って、金魚は進むのでありますぅ。
■ 釈照太 詩誌時評 『No.008 角川 『俳句』 2012 年 11 月号』 ■