小原眞紀子さんの連載評論 『 文学とセクシュアリティ 第007回 』 をアップしましたぁ。今回は 『花宴』 から 『葵』 の巻の読解であります。活字で本を読むのに慣れてしまった僕らには、江戸時代の古文書も平安時代のそれも、ミミズがのたくったような文字にしか見えません。しかし当然のことながらその文法や語彙は異なるわけで、江戸期の古文書が読めれば平安時代の文章を簡単に読むことができるわけではありません。
どこかで森鷗外が、紫式部はあまり文章が上手ではなかったようだ、と書いているのを読んだことがあります。異論はあるでしょうが、鷗外は江戸的教養を受け継いだ近代人であり古典に通じていましたから、そういう面があるのではないかと思います。紫とよく比較される清少納言の 『枕草子』 の方が詩的で洗練された文章でしょうね。紫はやっぱり、詩的というより物語構造を重視する小説家であっのでしょう。『源氏』 の解釈が紛糾することがあるのは、用例の少なさばかりではなく、紫の悪文のせいでもあるかもしれません。
ただ逐語的な解釈はすべての基本になるとはいえ、物語全体の構造を的確に理解しないと、部分的な解釈を誤るということが起こると思います。小原さんの 『文学とセクシュアリティ』 は言うまでもなく、『源氏』 全体の物語構造を読み解く試みです。今回はプレモダン的な共同幻想を主軸に 『源氏』 を読み解いておられます。モダンの時代が終わり、ポスト・モダンというプレモダンに極めて近い状態が問題になっている今、プレモダン的な物語の読解法は小説文学の原理を示唆しているように感じます。
■ 小原眞紀子 連載評論 『 文学とセクシュアリティ 第007回 』 ■