釈照太さんの詩誌時評 『No.004 角川 『俳句』 2012年07月号』 をアップしましたぁ。釈さんの 『角川俳句』 と岡野隆さんの 『月刊俳句界』 の批評を読んでいると、なんとなく俳壇の状況が見えてきますね。『角川俳句』 さんは、一生懸命俳句ジャーナリズムを作り出そうとしておられるようです。ま、俳句誌はこの 2 誌だけではないですから、有力結社誌を含めてもっと時評本数を増やし、俳句界全体をより広範囲に俯瞰できるようにしたいところです。
『角川俳句』さんの『平成の名句600』という特集や、『多言語化する俳句』といった議論はとても刺激的だと思います。考えるきっかけになる特集・議論だと思います。しかし一方で、こういうところから、ミイラ取りがミイラになるんだよなぁと編集者の石川は考えてしまうのであります。
釈さんが書いておられますが、『平成の名句600』は根拠のないとりあえずの時間的区切りです。「自分の句もあそこに載せて欲しいなぁ」という、俳句初心者の羨望を煽るジャーナリスティックな企画だという面を否定できません。『多言語化する俳句』が、根本から議論すれば、俳人たちのぬか喜びに過ぎないことは言うまでもありません。しかしいったんそういう企画や議論に乗っかってしまえば、作家は本気になるわけです。自分が時間を割いて行った仕事を無駄だと思いたくないのであります。
はっきり言えば、雑誌ジャーナリズムが自分の方から仕掛けてジャーナルを作らなければならない時期は、その文学ジャンルは衰退・低迷しています。ジャーナリズムと作家の関係は相関的ですから、作家・作品に力があれば、ジャーナリズムはそれを吸い上げていればいいわけです。吸い上げるものがないからジャーナルの力が目立つのです。
釈さんは盛岡在住の俳人小原啄葉(おばらたくよう)さんの俳句を取り上げておられますが、けっきょくは彼のような作家が俳句を支えているわけです。編集者の僕が言うのもなんですが、ジャーナリズムは作家を勘違いさせやすいです。雑誌の企画は擬似的ジャーナリズムですが、作家に求められているのは真のジャーナリズムです。ある文学ジャンルの本質を揺さぶり、それを変える思想と作品を生み出すことであります。
PS.
体操の内村選手の金メダルおめでたう~。北島康介選手の 3 連覇消滅は残念ですが、感慨深いものがありました。どの世界でもそうですが、特にスポーツの世界では勝ち逃げは許されないんですねぇ。厳しいけどスポーツの素晴らしさでもあると思います。でもまだ北島選手を見たい。彼は偉大な選手ですから。リレーがんばってくださいっ!。
■『No.004 角川 『俳句』 2012年07月号』 URL■