金魚(齋藤都代表)さんの文芸誌時評『読楽とは』をアップしましたぁ。『読楽』は徳間書店刊の月刊文芸誌で、『どらく』と読みます。「読む楽しみ」という意味と、「道楽」をかけ合わせたタイトルのようです。でもこの誌名、ちょいとキャッチーじゃないなぁと感じるのは僕だけかしら。
最初から『読楽』を『どらく』と読める人はいないでしょうね。そんなら『どくらく(DOKURAKU)』とか『どーらく(DO-RAKU)』にして、漢字の『読楽』をサブに回した方がよかったかも。キャッチコピーは「読む道楽、読んで極楽。本格的エンターティメント小説誌、『どくらく』新創刊!」かな。余計なお世話でした(笑)。
金魚さん(齋藤都代表)が書いておられるように、『読楽』は1967年創刊の『問題小説』のリニューアル雑誌です。徳間書店さんが強いコネクションを持っておられる売れっ子作家の顔ぶれはそう簡単に変えることはできませんが、『問題小説』という誌名では、あまりにも内容が限定される印象を与えるので、より自由度の高い『読楽』に思い切って変えたということだと思います。ただ金魚さんが書いておられるように、その内容は「問題小説を内容面で大幅に改変したものでは必ずしもない」。
金魚屋の文芸誌時評を読んでいてだんだんわかってきましたが、いわゆる大衆小説にはあまり特徴がありません。要は売れっ子作家に作品を発表させるためのペースメーカー的場所であり、売れっ子作家予備軍を育てるための場所です。雑誌の売り上げがイマイチでも、売れっ子作家の作品が本になれば採算がとれるシステムです。出版不況の中でも大衆小説はそれなりに売れているのです。
考えてみればそれは当たり前のことです。世の中に存在するエンターティメント商品の大半は物語と音楽です。テレビドラマ、映画、小説、それに最近ではロールプレイングゲームも物語です。それに素敵な音楽が加われば時に大ヒット商品が生まれます。この、世の中で一番の売れ筋商品パイの中に大衆小説は含まれています。純文学のシェアなど1パーセントもないでしょうね。
ただほとんどの大衆小説は文学の要件を満たしていません。それらは読んだ端から忘れられてゆく、文字による娯楽商品です。しかし以前も書きましたが、問題は『大衆小説』にはない。『純文学』から文学の核心が失われていることにあります。僕らは核のない『純文学』的雰囲気小説を読んでいることが多い。こういう状況では、どんなに回り道でも「文学とは何か」を原理的に再考察してゆくほかないと思います。
金魚屋の文芸誌時評では大衆小説誌を批評していますが、それは大衆文学誌をおとしめるためでは決してありません。既存の文壇的カテゴリーとしての『純文学』と『大衆文学』の対比はもはや意味がないだろうと考えているからです。既存のカテゴリー的区分けは度外視して、全ての小説をフラットに捉え直してみること。それが「文学とは何か」を原理的に考察するための第一歩になるだろうと考えているのです。