長岡しおりさんの文芸誌時評『No.004 新潮 2012年6月号』をアップしましたぁ。松浦理恵子さんは同性愛作家として知られていますが、もちろん問題はそこにはなく、彼女が生み出す文学です。長岡さんが書いておられるように、「分類しにくいものは理論家には邪魔ものでも、作家・松浦理英子にとっては「奇貨」なの」であります。
すこし下火になりましたが、いっとき日本の文学界でゲイを道具立てやテーマにした小説がかなりの数あらわれました。「ゲイ小説はやめてくれ」と新人賞選考委員の作家が音を上げたほどです。日本ではもの珍しかったかもしれませんが、アメリカでゲイ小説がはやったのはもうずいぶん前のことですが。
ゲイの本質を表現したいというよりは、小説の掴みとして有効で、先行きの見えない現代を表現できるという理由がそこにはあったと思います。しかし記憶に残るような作品は生まれませんでした。マジョリティのヘテロセクシャル(両性愛)とくらべればゲイは特殊です。その特殊性を微細に描くのも文学のおもしろさだと思います。でもそれでは文学としての本質的要件は満たせないでしょうね。
哲学者のミシェル・フーコーは「ゲイと呼ばれる固定的カテゴリーは存在しない。だから人はけんめいにゲイになるべきだ」と言いました。それはゲイにだけ当てはまる定義ではないと思います。人間はみな、自己の中に他者とはあいいれない異和や躓きを抱えています。ゲイであればそれはより強く意識されるようになるわけですが、ヘテロセクシャルでも本質は変わらない。押し殺し、飼い慣らしているだけのことです。
小説はその原理として、人間には決して解決できない矛盾を表現する言語芸術です。愛や性や死が論理的な哲学や批評で説明しつくせるなら、小説は不要です。長岡さんがお書きになっているように、「科学以外では、ごっちゃり理屈をこねたところで、そうそう同じ現象がそっくり再現できるわけではない」のです。
まず絶対矛盾に到達すること、それを描き出すこと。それが小説が最初にやらなければならないことです。その先に登場人物の死が待ち受けていても、なんらかの調和と平安が訪れるにしても、それはあまり大きな問題ではありません。死んでも生きていても同じだという場所に到達した小説には凄みがあります。