星隆弘さんの演劇批評『No.003 チェルフィッチュ『現在地』』をアップしましたぁ。予定よりちょい遅れですが、今月も無事に星さんの演劇批評が届きました。星さんには月に1回演劇批評をアップしていただく予定になっています。大変だと思いますが、星さん、これからもよろしくお願いしますです。
今回星さんが取り上げた演劇カンパニー劇団チェルフィッチュは、岡田利規(としき)さん主宰で、岡田さんは2005年に『三月の5日間』で岸田國士戯曲賞を受賞されています。そのせいか星さんの『現在地』の批評を読んでいても、戯曲の内容がかなり理解できるようになっていると思います。しっかりとした台本のある戯曲ということですね。
現代戯曲において、台本がどのくらいの重要性を持つのかという問題は本質的だと思います。もちろん台本がなければ戯曲は上演できません。しかし台本の拘束力が強くなればなるほど、現代戯曲はその独自性を失ってゆくというジレンマも抱えるように思います。小劇団はなんらかの前衛性を表現することを目的としていると思いますが、台本通りの戯曲ならば、テレビドラマや映画、商業演劇とあまり変わらなくなってしまうからです。
実は金魚屋の執筆者陣は、演劇にはすんごく弱いんです。総合文学を掲げながら、演劇がすこんと抜け落ちています。演劇は人類にとって最も古い芸能であり文化です。恐らく言葉の発生以前からなんらかの演劇は存在していたのではないかと思います。しかしその重要性の根っこを金魚屋執筆陣はとらえきれていない。星さんに孤軍奮闘していただいている状態です。
通俗であろうと崇高であろうと、今も昔も演劇はある社会的ドラマを上演してきたのだと思います。シェークスピアやチェーホフなど、台本を文学として読める戯曲もたくさんあります。しかし現代演劇の本質はやはりそこにはないだろうと思うわけです。写真の発明によって古典的写実絵画の時代が終わり、小説の発生によって詩から物語が失われたように、テレビドラマや映画、商業演劇の確立によって、現代演劇の本質も変わっているだろうと感じるのです。現代のようにポスト・アングラ演劇の時代はなおさらのことですね。
ますます星さんにおんぶにだっこになるかもしれませんが、星さんにはぜひリアルタイムで上演されている現代演劇の本質を明らかにしていただきたい。劇空間全体をテクストとして読み解く試みを、星さんにはぜひとも続けてお願いしたいと思います。