小原眞紀子さんの新連載評論『文学とセクシュアリティ』の『第1回 ガイダンス講義』をアップしましたぁ。小原さんは金魚屋詩人グループのお1人で、スタート当初から著者選びなどでご協力いただいていますが、まだ何もコンテンツを書いていただいておりませんでした。金魚さん(齋藤都代表)から、近々小原さんのコンテンツが仕上がるとご連絡いただいていたのですが、いよいよ新連載の始まりです。
非常に刺激的で面白い評論だと思います。小原さんが『もっと簡単に「女性文学論」とか「フェミニズム文学論」とか、できなかったんでしょうか。できなかったんです。「フェミニズム文学論なんて嫌だ」と、わたし自身が却下したんですね。』と書いておられるように、『文学とセクシュアリティ』は、従来のフェミニズム系評論とは一線を画した論考です。小原さんが書いておられる『世の中には男と女しかいない。とすれば性差について論じることはそのまま、人間そのもの、我が国の文化の本質そのものに触れることです。』というのが、この論考の特徴だと思います。
昨日、自由詩のジャンルはそうとう衰弱していてヤバイよ、という意味のブログを書いたのですが、それは全部の詩人さんたちの能力が低下しているという意味ではありません。文学金魚開始当初からお付き合いしてきた実感ですが、金魚屋に協力していただいている詩人さんたちは優秀な方々だと思います。彼らは文学について原理的に考えており、その意味で金魚屋の中核をなす書き手の方々であります。
小原さんが書いておられるように、アメリカ的フェミニズム(それは世界的影響力を持つ思想潮流ですが)は、男女の『対立』を基本軸にしています。それは20世紀初頭まで明らかな差別・格差があった男女間の不平等を解消するための社会運動として有効に機能しました。しかし男女の概念をアプリオリに設定することには思想的危険がともないます。ジェンダー、あるいはトランスジェンダーなどの用語を使っても同じことです。男性性というものは確かに存在する、女性性はアプリオリに存在すると少しでも仮定する限り、必ず通念としての男性・女性概念にとらわれてしまうことになるからです。
小原さんの『文学とセクシュアリティ』は、通念としての男女性差には立脚していません。生物学的な男性にも女性にも性差は内在して存在すると考察されています。だから『文学とセクシュアリティ』というタイトルになっているわけです。文学は人間存在を総合的に考察する実践的人文学の一つであり、性差はその重要なファクターだという思想がそこにはあります。
ある一つの概念を外在的なアプリオリなものとして措定すると、批判しても概念を補強することにしかならず、概念に安住すれば、そのとたんに堕落が始まるという意味のことを、以前、文学金魚の会議で詩人さんたちから聞いたことがあります。それは俳句を巡るレクチャーの時でした。
文学金魚は文芸誌時評などで既存メディア雑誌の批評を行っていますが、それは批評によって既存メディアの存在を補強することでも、その中で安住している作家たちを批判するためでもありません。簡単に言えば、小原さんが『文学とセクシュアリティ』で行っておられるような第三の批評的方策を打ち立てて、文学が現在の不振から抜け出すための道筋を見出すための試みです。
おおっ、まじめじゃん(笑)と突っ込みを入れられてしまひそうですが、金魚屋の目標は、文学の世界で従来とは明らかに異なる新たな思想的拠点、作品発表拠点を作り上げることにあります。これは既存メディアの中でルーティーン仕事をするよりはるかにおもしろい。そういうおもしろさがあるので、石川も毎日酔っぱらいながら微力をつくしているのでありますぅ~。