金魚さん(齋藤都代表)の『紡』総評をアップしましたぁ。まだ取り上げてない文芸誌、あるのねぇ。ほんと、裾野が広いわ。ぜんぜん気付いていなかったけど、ファッション女性誌がローティーン、ハイティーン、20代前半・後半、小さい子供を持つ奥様、子離れした奥様など、細かく細かく読者層を区切ってターゲットにしているのと同様に、文芸誌もセグメントを行っているわけですね。
芥川賞・直木賞を頂点とする、社会的に最も影響力のある文学ジャーナリズムの作品評価制度を中心に据えれば、文芸誌は『文學界』を頂点とするってことになると思いますが、これは雑誌の売上シェアとはまた別の問題です。実態としては文芸誌のジャンルは細分化されており、それぞれのジャンルにスター作家がいるという構図です。また細分化されているからこそ、各雑誌に掲載基準というか書き方の「掟」がある。ある程度面白いプロットを組み立てられる能力と筆力があるという前提条件付きですが、この「掟」をひととおり飲み込めばプロの作家ということです。
それにしても金魚さんの分析、僕なんかには参考になります。「女の子であるからには恋をするのだけれども、それは世界そのものが相手であったり、自我に近い存在であったりする。そういった「感情教育」を通して女の子は成長してゆくのであり、男の子のビルディングス・ロマンとは異なる」、「女の子たちは感情の揺らめきを通して、世界を把握することを課されているかのようだ」という分析は、男の僕にはなかなか思いつかない。
男の子の少年小説は社会的成長が主題ですが、女の子のそれは質が違うようです。それは日本だけでなく、世界でも当てはまることなんだろうなぁ。世界の児童文学は、日本文学よりはっきりと少年・少女の差異を捉えているように感じます。また金魚さんが書いておられる女の子の世界認識に、男はいつしか鈍感になっていくから、女性誌(ファッション、文芸誌など)が自分とは縁のないものと感じるようになるんだろうな。でもたいていの男は女性の言葉にうろたえやすいものです。女性の言葉が、男が発する言葉と質が違うからですね。
ただ女性が男性的部分を持っているように、男性にも女性的な部分があります。男性と女性の性差の違いって、精神的には含有率の差のような気もするのです。女性性のパーセンテージが高い人が女性と認知され、男性性が高いのが男性である、と。文学では特にそうだと感じます。でないと女性が男性を描くことはできないし、その逆もまた真です。
「そこには必ず勝機がある」という『紡』に対する金魚さんのエールは意味深だな。確かにどの雑誌にも勝機がある。でも雑誌の売り上げ部数的勝利は結果論だと思うのです。要は原理原則。なにが「勝機」なのかはっきり把握しなければ、いつまでも勝ちも負けもしない、現在のようなグズグズの状態が続いていくだろうと思うわけです。