谷輪洋一さんの『文藝 2012年5月号(夏号)』の時評をアップしましたぁ。『文藝』は『古井由吉特集』であります。この特集、不肖・石川も読みました。んんんん~という感じでしたねぇ。文学界全体で批評能力がガクンと落ちていると思います。何をどう評価していいのか誰もわからなくなっている。文学が進む方向とか、文学の役割とかがわからなくなっている時代に、なにかを正確に批評するのはとても難しいということかもしれません。
間違った方向に目的を設定している人が、どんなに努力を重ねても、結局のところそれは無駄になるのは言うまでもありません。逆に言えば、ちゃんとした仕事をしたいのなら、大前提として、どの方角に目標があるのかはっきり把握しなければなりません。単に作家になりたいとか、詩人、俳人になりたいなどといった欲望は、すごくくだらないと思います。なったってたいしたことありませんよ。またその過程でさまざまなメディアの掟に縛られて、それが「文学」だと考えるようになるのも馬鹿げています。
でもそういった批評的言葉って、最近すごく多いです。「文学とはなにか」がわからないから、既存の文壇や詩壇にしがみついているように思います。どうでもいいような内輪話が多い。不肖・石川は作家ではなく、単なる文学愛好者ですが、「あほちゃう?」と思って眺めています。外の世界から見れば、たいていの文学者はおこちゃまです。好き勝手なぬるいことやってるんです。大の大人が小説や詩を書いているなんて、どうかしてるとどこかで思っていた方がいいです。でもその子供っぽさと児戯が、大人としてふるまっている現実世界の本質を衝くから僕らは文学が好きなんです。ほんとのおこちゃまになってど~するよと思います。
文学金魚の何回目かの会議の時に、谷輪さんと金魚さん(齋藤都代表)が古井さんについてちょっとだけ話していました。金魚「いま一番日本的な小説家は誰ですか?」。谷輪「古井由吉だと思います」という会話でした。それに詩人さんが加わって、「古井由吉の散文が、詩的だと思っている詩人が多い。しかしそれは間違っている。古井くらい散文的な作家はいない。彼の散文は一番詩から遠い」。谷輪「そのとおり」で話はぷつんと終わりました。
んん?そうなの?って感じたので、よく覚えています。でも言われてみればそうかもしれない。古井さんの作品には凄みがあります。でも明らかな限界もあるように感じます。それを指摘するのが批評だと思います。でもそれは、大きな前提として、文学がどこに進むべきか把握してないと言えないでしょうね。古井さんが凄いといっても、つまらないと言っても、文学批評としては何も言ったことにはならない。なぜ凄いか、なぜつまらないのかの前提を書くことが、けっきょくは文学批評だと思いますですぅ~。