高木高志さんの、高山れおなさんによる『朝日歌壇俳壇 2012年3月26日付朝刊』時評をアップしましたぁ。ようやく俳句や自由詩の時評が動き出しましたねぇ。金魚屋に協力して下さっている詩人さんたちは、「詩の世界に月や年ごとの状況はない」という点で一致しておられまして、編集者としては苦労しているのですぅ。ようやく紹介の紹介で時評者の方を確保しつつあるところです。確かに文学ジャーナリズムは雑誌(メディア)が作り出す幻想かもしれませんが、なにが幻想なのか、どうして幻想が生み出されるのかを明らかにすることも文学金魚批評の目的の一つです。また本当に状況が存在するならそれをもっと明確にして、文学界を少しでも活気あるものにしていきたいのであります。
で、高木さん、怒っておられますねぇ。高山れおなさんの『朝日歌壇俳壇』の内容は、確かに論点がズレていると思います。高山さんが取り上げているのは長谷川櫂さんの『震災句集』と御中(おなか)虫さんの『関揺れる』の2冊の句集で、両方とも東日本大震災をテーマにています。高山さんは作品の文学的価値ではなく、お2人の論争に焦点を絞って時評を書いておられるのですが、長谷川さんと御中虫さんの論争のレベルがまず低い。論争に対する高山さんの批評も同様です。
高山さんは「(長谷川さんが立脚する)有季定型という制度を、(御中虫さんが)友人の被災という極私的物語によって相対化するウィットが小気味良い」という評言で、お2人の衝突を文学的問題に置き換えて軽くいなしています。しかし長谷川さんはまさか「有季定型という制度」を守るために震災句集を編んだわけではないでしょう。また御中虫さんはご自分の「ウィット=機知」を示すためにわざわざ震災句集を刊行したわけでもないと思います。ここには論点のすり替えがあります。お2人の震災句集に対して具体的かつ明確な文学的価値判断を下さなければ、どんな議論も無意味です。また両者の論争には個人的反感が入り混じっていますが、高山さんはそれを重々承知の上で、深入りせずに時評しようとしているので腰の据わらない批評になっている。僕が編集者なら書き直しと言います。論争のレベルはさておき、本当のことを書いた方がまだ読者は納得する。
自由詩や小説の世界でも東日本大震災をどう捉えるかは大きな問題になっています。作品も批評もたくさん書かれています。それが文学的な価値として意味を持つかどうかはずっと先にならなければわかりません。しかしそれが俳句の世界では、俳句の本質としての「有季定型という制度」の問題ではなく、『歳時記』(季語)レベルでの「有季定型という制度」の問題として語られているのなら情けないことです。
昨日、お花見が終わってから図書館に行ったんですよぉ。俳誌をいちおうチェックしておこうと思いまして。不安になりましたね。俳句って文学なの?ってやっぱり思いました。子規の時代には江戸座点取俳句が、赤黄男・重信の時代には子規から始まるホトトギス系有季定型俳句が飽和・衰退に向かっていたわけですが、現代もそうじゃないかと思いました。以前、釈さんがおっしゃっていたように、俳句は確かに習い事だと思います。俳誌に書いている著者たちの異常なまでの平穏さ、根拠のない自信過剰ぶりを読んでいるとそう思います。
ちょっと書きすぎたかもしれませんが、外から見ると、俳句の世界、かなりヤバイと思います。でもどこかに俳句の本質を考え抜いている作家はいるはずです。そういう人は金魚屋の仲間ですぅ。