『小説新潮』、『すばる』に続く、長岡しおりさんの文芸誌時評『小説すばる』をアップしました。長岡さんの文芸誌時評はこれで3誌目です。大変だと思いますが、長岡さん、これからもよろしくお願いしますです。
そんで長岡さんの時評、とっても面白いと思います。「女性ならでは」って言葉はあまり使いたくないんですが、男の僕としては、「なるほどね~」と思ってしまう指摘が多々あります。
以前アップした『小説新潮』2011年12月号『特集・最後の恋』の時評で長岡さんは、
編集後記には、男は過去の相手に未練を残しがちであり、したがって「恋愛小説を求める根源的な欲求は、男性の方にこそあるようにも思うのだが、現代日本では、恋愛小説の読者は圧倒的に女性が多い」とあるが、やはりそれには異論がある。
女はぎりぎりまで我慢しているのだ、と思う。相手をある意味、しゃぶりつくし、見切った後でなければ別れない。したがって「過去の相手」になってしまったら、もう思い残すことなどないのだ。そいつが「過去」にならざるを得なかった理由は、はっきりしているんだから。
と書いておられます。そーか、そ~だったのかと、うかつな僕は膝を叩いて痛っ!と思ったのでした(笑)。
確かに男の小説家が書く恋愛小説はぬるいロマンチシズムに流れがちです。女性作家の方がもっと醒めていて意地悪かな。特にずっと平和が続いている高度経済成長以降の小説にこの傾向が強いと感じます。平和時には男の暴力性は影を潜めますから。
以前、明石家さんまさんの『ほんまでっかTV』で、女性は男性と喧嘩している時に、動体視力が通常の数倍に上がるという研究成果があると言っていました。だから女性は観察力が鋭いのだという結論でしたが、それだけじゃないでしょうね。
女性は男の暴力を本能的に恐れているのだと思います。だから何事も見逃さない。現代では金原ひとみさんの『蛇とピアス』がそういう意味でいい作品だったなぁ。あの作品の女性主人公は、男の暴力性に憧れ、誰からも恐れられている男たちの懐にいとも簡単に潜り込む。そして手に負えないはずの男を飼い慣らし、本性を見切っていく。長岡さんの言うとおり、「相手をある意味、しゃぶりつくし、見切った後でなければ別れない」女性であります。
で、女性つながりでもひとつ。さっき昨日僕がアップしたブログ記事に対する金魚さん(齋藤都代表)からのメールがっ!。「小原眞紀子さんには執筆者紹介などで全面協力していただいています。今年中にはなにか連載していただくお話も進んでいます」だって~。
うぇ~ん、あたしが悪うございましたよっ。でも金魚屋って書き手の緩いユニオンだから、僕も全体を把握してるわけじゃないのよねん。でもそんだから何が飛び出すかわかんなくて面白いんだけどさっ。ではまた明日~。