* 「眠れるヘルマプロディートス」二世紀のローマで作られた複製品。ルーヴル美術館蔵。反対側には乳房と陽物とを有している。
いくつもの物語の内容や登場人物、それに印象的な歌などについて語らっていた女房たちの話題は、歌物語を経由して和歌集へとたどり着く。それは自然な流れではあるけれども、『源氏物語』のようなものが成立するためには『伊勢物語』などの歌物語は必須であったし、その歌物語はまた和歌と詞書との複雑な関係性から発展したものと見るべきなので、いってみれば女房たちはわずかな頁数で見事に文学史を遡行して見せているわけである。このようなところにも、『無名草子』の計算しつくされた構造がある。
さてある女房が、ふとこんなことを言う。「ああ、私も藤原俊成のような身分になって、歌集を選んでみたいものです」と。言うまでもなく俊成とは定家の父であり、『千載和歌集』を撰んだ人物である。だがこの女房は意外にも返す刀で、「でも『千載和歌集』にもたいしたことのない歌が少なからず入っていると思う」と指摘し、それは俊成ほどの人といえども、採用する歌人の地位などに気を配る必要があったからだろう、と推測している。このような気遣いが必要だとすれば、それは『千載和歌集』が勅撰集、すなわち天皇のお墨付きを得た公式の歌集だからであろう。
と、ここで、女房の不満が爆発する。「いでや、いみじけれども、女ばかり口惜しきものなし」すなわち、「それにしても、すばらしいところもあるとはいえ、女の身でいるほど口惜しいことはありません」と。何故なら、国家事業と見なされる勅撰集の編集に、女性が当たることは不可能だからである。
これを受けて別の女房が、すぐさま励まそうとする。「でも、紫式部の『源氏物語』しかり、清少納言の『枕草子』しかり、これまでに挙げた物語の多くも、女性の作ではありませんか。女であることも、そんなに捨てたものではありませんよ」と。しかし相手は納得しない。
この女房の怒りには、やや独りよがりなところもある。というのも、彼女が言っているのは、結局は「私もそのような物語の作者たちとおなじ宮仕えの女房なのに、これといった作品を残すこともできそうにない」ということだからである。しかし、「それに、いい歌を作っても、女はなかなか歌集に載せてもらえない」という彼女の発言は、あながち間違いではない。確かに、伊勢のように、『後撰集』で紀貫之に次いで多くの歌を入集させたような有名な歌人もいることはいるが、有名な歌が多い歌人というと、やはり男性のほうが圧倒的に多いのである。
とはいえ当時の文学は、本質的には、男女を差別するようなものではない。むしろ、男女の和歌によるコミュニケーションが文学の根元であるという性質上、女性を抜きにした文学というのはあり得ないのである。男性の作者が、自分の創造した男女の登場人物のあいだで恋文をやりとりさせるような西洋の文学のあり方と、これはまったく異なるものだ。さらに言えば、和歌は平仮名の芸術であり、平仮名は「女手」とも言うように、女性の領分に属した文字体系とされている。実際には、教養ある女性は漢文も読むことができたが、社会的には、それは望ましくないことという建前があった。男性の立場から言えば、官僚としての仕事には漢文を用いざるを得なかったが、平仮名が誕生し、文学の中心が漢詩から和歌に移り変わった時点で、真に自らの心と自然を、自分の言葉で語るためには、日本語を存分に表現できる唯一の文字である平仮名こそが、もっとも親しみやすい文字であったことは間違いない。つまり、平安中期以降においては、男女双方の参加なくして文学はありえなかったし、その文学を可能にするのが平仮名であった以上、女性は阻害されるどころか、むしろ文化の中枢にいたと言ってよいのである。
これは和歌から散文への発展を考えるとなおさら重要な問題であろう。『土佐日記』は紀貫之の作だが、あたかも貫之に同行した女性が書いたような体裁をとっている。和歌やそれを通して分析される人々の感情、というものが『土佐日記』の主題である以上、それはどうしても平仮名で書かれなければならなかったのであり、男性が平仮名で文章を綴るという習慣がまだなかった当時には、女性への仮託が有効な手段だったわけである。
このような営みが古くからあったためか、日本には作者が性を装った作品というのが少なくない。太宰治の「女生徒」や『斜陽』などはよく知られた例であるが、これなども、西洋にはあまり見られない。男性と女性がテクストの上で同居するという発想が、そもそも西洋の伝統にはなじみのないものなのである。
今回、写真にあげたのは、紀元二世紀のヘルマプロディートスの石像である。ヘルマプロディートスは文字通りヘルメスとアプロディーテー(ヴィーナス)の息子で、すこぶるつきの美男子であったが、水浴びのさなかにサルマキスというニンフに強姦され、この泉の精と融合してしまった。つまり両性具有者になってしまったのである。この神話からもわかるように、西洋では両性具有は常に驚異の対象であった。ところがこと日本の文学に関して言えば、それは平安時代すでに両性具有的であったのであり、なおかつ、それこそが最も自然な姿として捉えられていた。
本文に戻ろう。女性の地位についての若干の疑問を残したまま、女房たちは尊敬すべき女たちの名前を挙げてゆくことにする。「その人たちの真似をして、私たちも立派になりたいものですね」と一人が言えば、「いけませんよ、物真似なんぞしても深みにはまるだけです」ともう一人が冷静に諌めているのもおもしろい。
まず名前が挙がるのは小野小町である。今日でも小町の評価は高いが、当時の女房たちにとっては尚更である。容姿端麗、情け深く、気配りに長け、何より抜群の歌の名手である。ところが、女房たちはただただ誉めそやすわけではない。小町は落ちぶれ、惨めに年老いて死んだ。こればかりは、あまりにも残念だというのである。
次は、『枕草子』の清少納言だが、こちらの評価も小町に近い。貴族の心の文をたくみに描き出し、宮中の様々な事象を余すところなく書き連ねた少納言だが、晩年は後ろ盾を確保することができなかったのか、老いさらばえて、つぎはぎだらけの布をまとい、最後はただひたすらに昔を懐かしんでいた、という伝記が紹介されている。
だから和泉式部の娘である小式部などは、女房たちの目には潔く映る。歌人として優れていたばかりではなく、主人である中宮彰子の深い寵愛を受け、さらには藤原教通のような人物に愛され、しかもまだ若く美しいうちに死んでしまったからである。
こんな調子で、女房たちはさらに和泉式部や伊勢、それに「宮の宣旨」や「兵衛内侍」など、いまでは素性がよくわからなくなってしまっている女性たちについても議論を続けてゆく。そんな女房たちの論法には、いくつかの特徴がある。
まず、時代の寵児であった女性たちに関しては、凋落し、あわれな姿になった後半生についても触れていることが多い。これは言うまでもなく、盛者必衰の仏教的思想の反映であろう。次に、綺譚・伝説の類への依存がある。小野小町が妖婆のように老いさらばえ、髑髏になってまで歌を詠んだ、というのも史実を度外視した説話的な発想であるし、また小式部については、和歌で病を治したという挿話が紹介されている。これは、和歌に呪術的な力を認めていた当代の思想の反映と言えなくもないが、これほど怜悧で現実的なところのある女房たちが、それを本気で信じていたとは思えない。つまり女房たちは、実在した女性たちのありようを探るというよりも、文学という枠組のなかで一般化された「女性なるもの」というイメージについて議論しているのだと言ってよい。反対に、「清少納言はすばらしいが、和歌が少ないのはちょっといただけない」などと言うときにこそ、女房たちはより個人的な、率直な意見を披露しているのであろう。
女房たちは実在であると同時に理想化された存在でもある女性たちのイメージを通して、自らもそのような女性でありたいと夢想しているように見える。宮廷に使える女房としての彼女たちの選民意識は明らかで、女性が名を残すことの難しさを語りながらも、「末々はことわりなりかし」すなわち「下々の者は名が残らなくて当然だが」と述べているほどである。
ところで、もし『無名草子』がこのまま女性論に終始し、「さあ、もう夜が明けるから終わりにしましょう」と、あたかも『千夜一夜物語』の一夜のように終わっていたなら、筆者は『無名草子』を取り上げることはなかったかもしれない。むろん、ここまでだけを見ても、『無名草子』は充分に興味深い。しかしその真価は、やはりテクストの最後にあるように思えるのである。
大野ロベルト
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