* サンドロ・ボッティチェッリ「地獄の深淵」1490年頃、バチカン図書館蔵。
孤独な老尼は、最勝光院に足を踏み入れた。仏像や襖絵、それに金銀で飾った調度などのあまりに美しく、極楽浄土もかくやと思われる光景に、老尼はにわかに心を和ませる。そして寺院を後にして、西に歩きながら見渡してみると、人里はなれた一郭に、たいそう古びた檜皮屋(ヒノキの皮で屋根を葺いた家)が建っているのを見つけるのである。
いったいどんな人が住んでいるのかと歩み寄ってみると、塀は崩れ、門は荒れ、とても現に使用されている邸とは思えない。庭の草木も伸び放題で、老尼は『源氏物語』の「蓬生」の巻で末摘花を尋ねる光源氏の姿を思い出すのだが、ふと建物のほうを見やると仏間であるらしく、香の煙が立ちこめている。尼としては仏の気配に惹かれざるを得ない。そこで縁側に身を乗り出すと、今度は半ば引き上げられた御簾の向こうから幽かな琴の音が漂い、いよいよ老尼の好奇心を刺激するのである。
導入部から引き続き、語り手は常に老尼の周囲に芸術と仏教という二つの主題に関わるモチーフを巧みに配置している。寺の境内を抜けたどりついた邸は『源氏物語』を連想させ、仏を祭る香の匂いには琴の音が覆い被さっている。ただ導入部から異なっているのは老尼の状態である。彼女はもう自己の内面には目を向けず、つぎからつぎへと現れて来る外部からの刺激に心を奪われている。老尼はもはや孤独な老人というよりも、見慣れない世界に流れついた一人の旅人と化している。
言ってみれば老尼は、いまや異界に足を踏み入れているのである。思いのほか早く傾いた日は、老尼を非日常の神域である寺院へと赴かせ、さらに人気のない、ただし香や音楽に満ちた檜皮屋へと誘う。その世界は、彼女が先ほどまで花を摘みながら老いを託っていた世界とは別のどこかである。
異界への侵犯、あるいはそこへ迷い混むということは、人類の根源的な願望であり、また真実を探るためには避けられない、日常世界からの逸脱であるだろう。十四世紀に成立したダンテの『神曲』は、イタリア最大の古典であり、かつその後の人類の文化活動に多大な影響を及ぼした作品であるが、その内容が主人公(ダンテ自身である)による地獄、煉獄、天国をめぐる遍歴であることは周知の通りである。またイギリスの文学、とくに児童文学を見てみれば、兎の穴に落ちるアリスや、衣裳箪笥からナルニア国を訪れるペベンシー家の子供たちの姿にも、これと同じ伝統を見出だすことは容易い。
異界への船出は、鎖の輪のように連綿と続く出口のない日常に突如として口を開く深淵によって可能になる。その異界に存在するものは死であれ、成長であれ、何らかの普遍的な変化であろう。おとぎ話の主人公は、しばしば結末で物語の開始と同じ位置に戻ってくる。だが本質的には、それは決して前と同じ場所ではない。例えば紹介した写真は、『神曲』に関連づけられる無数の美術作品の一つ、ボッティチェッリによって描かれた「地獄の深淵」である。下降する螺旋はどんどん狭まり、中心に極端に近づいたところでぽっかり口を開けてただの空洞になる。そこを抜ければ、おそらく出るのは元の場所なのだが、ただし、それは二重写しになったもう一つの世界であり、まるで同じ言葉の引用によって構成された、しかし別の書物のような世界なのである。
『無名草子』の老尼は、檜皮屋を見つける直前、山里のホトトギスの声を聞いてこんな歌を詠んでいる。
をちかへり語らふならばほととぎす死出の山路のしるべともなれ
「もう一度、戻ってきて鳴くのなら、そのときは死出の山路を案内する道案内にでもなっておくれ」というほどの意味になるだろうか。ホトトギスは『古今集』で四十二首もの歌に詠まれた、歌人たちにとって身近な鳥であった。ホトトギスはしばしば闇夜に響き渡るその鳴き声で聞く者の心を動揺させるのであるが、山を本拠とし、里に降りて来るのはわずかな間であると考えられていた。しかし同時に、ホトトギスには「死出の田長」という異名がある。これはホトトギスが田植えの時期に日本に渡ってくるという特徴とも関連しつつ、「死出の山」の向こうからやってくる鳥、つまり幽明の境にある存在として捉えられていたことを意味する。要するにここで老尼は、まさに異界へと越境しようとしており、その道案内をホトトギスに頼んでいるわけである。
だが最勝光院を経由して老尼が足を踏み入れた異界とは、どのような場所なのだろうか。それは「死出の田長」であるホトトギスが文字通りに示唆するような死の世界なのだろうか。孤独な老尼は山道で息絶えたのだろうか。どうもそうではないらしい。檜皮屋で老尼を迎えるのは天女ではなく、すっきりと美しい三、四人の女房たちなのである。
女房たちは老尼を見るなり「そんなお年で、いかにも心苦しそうな様子をされているのが心に染みます。でもその花籠は小野小町が持っていたというものよりも立派ですね」とか、「阿私仙に仕えた釈迦のお心よりも貴重と思えます」とか、褒めているのだがけなしているのだかよくわからないような挨拶をする。小野小町が出てくるのは、伝説化された小野小町が、老後に破れた笠をかぶり、壊れた花籠を持っていたという挿話のためである。阿私仙は釈迦に『法華経』を教えたという仙人である。つまりここでも、小野小町という文学の代表的な人物と、『法華経』ならびに釈迦という仏教の代表的な存在が引き合いに出されていることになる。
この女房たちはどうにも得体が知れない。そもそも人数も、「三四人」とはっきりしないのである。ところがこのあと老尼は、まるでホトトギスの化身のような女房たちがさえずり交わす言葉を、花のかわりに花籠に集める、という任務を遂行することになる。
大野ロベルト
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