『マレーナ』(2000年、イタリア・アメリカ合作)ポスター
監督ジュゼッペ・トルナトーレ
地球は一個のオレンジのように青い
これはシュルレアリスムの詩人ポール・エリュアールの有名な詩句である。非文法性の見本とも言えるその表現はしかし、意外と詩人の見たままを吐露した句でもある。というのもエリュアール本人の回想によれば、彼にこの詩を書かしめたのはテーブルの上で腐りはじめ、青黴に侵食されつつあった一顆のオレンジだったからである。
だが誰もが知っているとおり、詩に説明は不要だ(ああ、文学者への死刑宣告)。エリュアールの言葉がインクに宿り、筆先から毛羽だった紙の繊維へと流れ込んだその瞬間、地球は橙色のオレンジを経由して青く染まったのである。
そしてこの詩はその三十二年後、初の有人飛行に臨んだ宇宙飛行士であり、宇宙空間で昇進した初めての軍人でもあるユーリイ・ガガーリンの言葉、
地球は青みがかっていた
によって反芻されることになる。しかし私たちは詩人の預言によって、そんなことはとうに知っていたのだ。しかもその青の背後にオレンジがあったことも。
ところでこれは映画においてもそうなのである。とくに近年の映画では、それはどちらかと言えば歓迎すべからざる現象として捉えられている。何故なら映画業界で「オレンジ・アンド・ティール」(ティールは緑がかった青色の意)と呼ばれる二色の取り合わせはあまりに多用されているため、批評家はしばしばこれを創造性を欠いた、ベルトコンベア式の処理として糾弾する。
試みに2016年に成功した(売れた)映画の画面を切り抜いて拾ってみれば、その猖獗は明らかであろう。「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」「スーサイド・スクワッド」「ジェイソン・ボーン」(いずれも2016年、米)のスチールを見ると、そのすべてがオレンジ系とブルー系で塗られていることがわかる。はてさて、どうしてこのような仕儀と相成ったのか。
【2016年のヒット作。色の点では無個性と言うほかない】
映画は撮影された後、作品全体の統一感を出すためであれ、演出効果を高めるためであれ、必ず色の調整が行われる。かつてこの作業は人間の手で行われていたが、映画製作の現場からフィルムそのものまでが消えつつある昨今では、当然ながらデジタル処理が施されることになる。ということは、ある一つの画面で色調を完璧に近い状態まで整えることさえできれば、その色調の設定を他の画面に適用することは容易い。
だが裏を返せば、すべての画面に適用しても違和感のない色調というのは、無難な色調ということにならざるを得ない。すると、やはりどうしても「オレンジ・アンド・ティール」は捨てがたいのだ。というのも映画にはたいてい人間が登場するし、白であれ黄色であれ褐色であれ、人間の肌の色というのはたいていオレンジ系の周辺にある。そして、そうである以上、人間以外にはオレンジ系の補色であるブルー系を用いるのが、最もバランスのよい方法である。補色の相乗効果によってコントラストが上がり、画面に落ち着きや迫力が出るのだから、手軽に美しい画面を作ろうと思えばこれ以上の選択肢はない。
というわけで「オレンジ・アンド・ティール」は大量生産、大量消費の映画工場ハリウッドのイメージと結びつき、このところすっかり評判を下げているのだが、それでも色の本質は職人芸の衰退などによって濁ってしまうものではない、と信じたい。青の静けさについてはすでに取り上げたから、今回はオレンジに注目することにしよう。
おそらくオレンジは、懐かしさの色である。すでに述べた人間の肌身の色合いだけではない。故郷の大地も、夕焼けの太陽も、色あせた写真も、懐かしさのパレットはしばしばオレンジのまわりを低徊する。
以前にも紹介した鬼才、コーエン兄弟の名声を一気に高めた「オー・ブラザー!」(2000年、米)は、アメリカのルーツ・ミュージックを多用したサウンドトラックも大成功を収めているが、それと同時に、まだ発展途上にあったデジタル技術による編集を全編に施した作品としても知られている。
本作は軽快なコメディであり、ミシシッピの囚人エヴェレット、ピート、デルマーの三人が120万ドルの埋蔵金を求めて旅をする物語である。舞台は大恐慌時代の米国だが、物語の骨子はギリシャの叙事詩『オデュッセイア』の借用であり、その意味ではジョイスの『ユリシーズ』の親戚のようなものである。と、蛇足はさておき、問題の色使いを見ると、本作では大恐慌時代の雰囲気を出すために、全体的にセピア色の着色が施されている。セピア色とは言ってもあくまでカラー映画だから、結果としてはオレンジ色が強調された、懐かしさの漂う画面が作られており、この暖かさもどことなく笑いを誘うのである。
『オー・ブラザー!』(2000年 アメリカ映画)スチール
監督コーエン兄弟
ここでもう一人、懐かしさの色調を使いこなす名人を挙げるなら、やはりジュゼッペ・トルナトーレということになるだろう。十代から舞台演劇に携わっていたとはいえ、事実上まだ無名の青年であったトルナトーレが一気に名匠の仲間入りをしたのは若干三十二歳で発表した「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988年、伊・仏)によってであった。
映画好きの、映画好きによる、映画好きのための映画とも言える本作は、シチリア島の僻村で戦渦に巻き込まれた住民たちに唯一希望を与える娯楽であった映画を愛する寡黙な技師アルフレードと、映画の魔術に魅せられた少年トトの友情を描いた物語である。当初公開されたオリジナル版と世界で評価された劇場公開版とでは上映時間も三十分違い、その主題もやや異なっているが、いずれにせよ全編に横溢するのは映画への愛情と、その愛情を育んでくれた過去への堪え難いほどの郷愁である。というのもこの映画の語り手は、いまや初老にさしかかった映画監督サルヴァトーレ、幼き日の少年トトであるからだ。
『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年、イタリア・フランス合作)スチール
火事の前にも、後にも、映画館はオレンジ色だ
映画のクライマックスで映画館が火事になるのは象徴的である。オレンジ色の炎はトトにとって世界でいちばん大切な場所を焼いてしまうだけではなく、映画フィルムを守ろうとしたアルフレードの視力をも無慈悲に奪ってしまう。こうしてオレンジ色は少年時代を力づくで終わらせる呵責のない色としての地位を獲得するが、それは同時に、文字どおり目を灼くほどのノスタルジーの色ともなって、トトの目に永遠に焼きつくのである。
トルナトーレはまた、故郷シチリアを撮り続ける監督でもある。主演女優モニカ・ベルッチの代表作とも言える「マレーナ」(2000年、伊・米)では、町一番の美人として男性陣の憧れと女性陣の憎しみを一身に集めるマレーナと、一歩離れたところから彼女を見つめることしかできない(ただし、妄想の中では好き勝手に振るまう)少年レナートの静かな交流が描かれるが、ここでも運命に翻弄されるマレーナを包んでいるのは少年の思い出を滲ませたオレンジ色の陽光である。そしてもはや明確な筋書きよりもシチリアという小宇宙そのものを描くことに徹した群像劇「シチリア! シチリア!」(2009年、伊・仏)でも、ペッピーノとマンニーナという一組の男女を軸に、実に半世紀、三世代にわたるシチリアの面影が、オレンジを基調とした映像で幾重にも織り重ねられてゆく。
『マレーナ』(2000年、イタリア・アメリカ合作)スチール
監督ジュゼッペ・トルナトーレ
『シチリア! シチリア!』(2009年、イタリア・フランス合作)スチール
監督ジュゼッペ・トルナトーレ
ところで飛行機にとりつかれていた稲垣足穂は小説「白鳩の記」のなかで、登場人物の口を借りて、ある飛行機の色についてこんなやりとりをしている。
「きみ、飛行機はどんなふうだった?」
「飛行機がきた、飛行機がきたと云うので見ると、たいへん高い所を飛んでいた。ちょうどお日さんのすぐ下へきたので、羽が赤く透いて見えたワ」
お父さんといっしょに五月四日に、尼崎へ出かけたという友だちにとって、こんな見聞談はわたしの前ではすでに三べんか四へん目であったにも拘らず、答えてくれました。
「赤って黄いろかい?」
「黄いろじゃない。もっと赤いの」
「茶褐色?」
きのう天王寺公園で見たゴム臭い曲面と平面を元にして云ってみると、友だちは
「うん、茶褐色だ―でも、もっと赤いような……」
「鳶色かい」
私は、おそらくその飛行機もオレンジ色であったろうと思う。その飛行機は太陽に近づきすぎて翼を溶かし、詩人の魂とともに墜落するのだ。少年時代の思い出を道連れにして。
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■