第九回 掟の言葉
言葉の掟といえば、すぐに想起されるのは文法であろう。
文法を探求することは、常に地雷原を進むようなものである。言葉は生きており、姿を変え続ける。言葉がただ孤独に存在する場合と、文として紡がれた場合と、さらに周囲の文と連なっている場合とでは、まったく異なる意味作用が発露することもめずらしくない。そんな、言ってみれば鰻のようなものを捕まえて解剖しようというのだから至難の業である。そもそも文法が研究されるには、言葉は紙の上に文字として定着していなければならない。だが本来、言葉は音声であった。音声が文字化されるその過程にも、無数の変数が割り込んでいる。そのような代物にあたかも法律のような厳格な枠組みを当てはめようとすることは、どだい無茶な試みであるように思われる。
だが考えてみれば、言葉がその機能を初めて発揮した太古において、言葉はとりもなおさず法律であった。つまり言葉は掟の言葉であったのだから、その言葉の掟を探ることは人間にとって避けられない宿命ではないか。このようなわけで文法の探求という営為は、人間の思考しうる地平の限界をその出発点において示すものとも言えるのである。
二十世紀の言語学の全体は、以上のような発想をめぐって展開されたと言っても大過ないだろう。言葉はある地方やある時代に固定されたものから、外側どころか内側に向かっても開かれ続けてゆく意味の波となった。すると言語学もただ言語に関する学問であることをやめ、もはや哲学として、言葉からなる世界の仕組みそのものを探ることを目的の一つとするようになったわけである。
例えばジャック・デリダが注目したのは、書き言葉の優位に立つ話し言葉と、その権力構造の有効性であった。古来、複写され、捻じ曲げられ、様々な解釈に開かれてさえいる書き言葉は、概して信の置けないものとされた。一方、その場限りで生起し、唯一の意味を伝達する絶対的な話し言葉こそ、真実の言葉だったわけである。なかでも王の命令は、何人も覆しえない巨岩の如き重みを持った。首を刎ねよと言えば首が転がり、朕は国家なりと言ったその瞬間、太陽王はフランスそのものになったのだ。これこそつまり掟の言葉である。
だがデリダの目的が話し言葉と書き言葉の逆転、あるいは権力構造の転覆(これがいわゆる脱構築である)にあったように、掟の言葉も決して盤石ではない。むしろ反対である。王の命令はすべからく神の命令でなければならないのだが、悲しいかな人間の肉体しか持ち合わせない王の声は、せいぜい玉座の周囲にしか届かない。そこで王の言葉は文字として定着され、複製され、国の隅々まで早馬で運ばれるが、もたもたしているうちにすっかり意味を変えてしまうのである。こうして庶民にも法律を笑う権利が与えられる。
熊を闘わせてはならない。
聖職者のふりをしてはならない。
目隠しをして車の運転をしてはならない。
日曜にドミノで遊んではならない。
刑務所の職員は囚人と性行為に及んではならない。
監視員のいない場所でフリスビーを投げてはならない。
公衆浴場を運営してはならない。
仮面などで顔を隠した状態で、公共の場所で二人以上の集会を開いてはならない。
公職に就く者の宗旨は問わない。ただし、大いなる存在を認めなければならない。
眼球を売ってはならない。
淋病患者は結婚してはならない。
青く染めた生後二ヶ月未満の家鴨や兎を売買してはならない(ただし一度に六羽以上の売買であれば認められる)。
灯りのついた部屋で性行為をしてはならない。また、正常位の外の体位で交わってはならない。
入院患者にビールを差し入れてはならない。
水たまりを跳び越えて遊んでいる子供を制止してはならない。
公共の場で冒涜的な言葉を用いてはならない。
以上はアメリカの様々な州や都市で、現在も効力を持っている法律の数々である。人工的・実験的な国家であり、なおかつ法と訴訟が建国当時から現代まで大きな意味を持ち続けている国家であるだけに、その法律の多彩さと奇妙さには目を瞠るものがある。
法律が存在するということは、その法律が禁ずるところの現象が少なくとも一度は実際に観測されたということであり、なおかつ、それを放逐すべきと見なす権力者が居合わせたということである。言い換えれば、誰かが熊を闘わせ、聖職者のふりをして人を騙し、目隠しをして車を飛ばし、フリスビーを投げてひどい目に遭い、それを可哀想と思ったりひどいと思ったり馬鹿馬鹿しいと思ったり面白いと思ったりする人々が、権力で歯止めをかけたわけである。
だがそれよりも興味深いのは、政教分離の概念をどこよりも執拗に固守しているはずのこの国で、実際にはしばしば宗教が政治に介入していることであろう。日曜にドミノが禁じられているのは、この遊戯が賭博と結びつく可能性があり、日曜が安息日だからである。公職に就こうとするものが、たとえ建国の父たちが信じたのとは違う神であっても何らかの神の存在を認めることを求められるのは、神の名の下に作られたはずの国家に奉仕する人間が、神と聞いただけで鼻で笑うような魂の持ち主では困るからである。神と聞いて鼻で笑う人間はおそらく魂も信じてはいないだろうが、立法者にとってはそれはどうでもよいことだ。
このような宗教心に根ざした、明確ではないがあまりにも大きな畏怖は、国民の生活の基礎的な部分にまで影響を及ぼすような法律の形をとることもある。良識ある市民は自分の妻とのみ、暗い部屋で、唯一の姿勢で交わる以外のことはしないのだし、どんなに腹が立っても、間違っても神の名を汚すような言葉は吐かないのである。つまり良識ある市民とは、貞操帯をつけて猿轡を噛まされた人々のことである。だから公衆浴場のような誘惑の多い場所も当然ながらご法度だし、淋病にかかるような悪党は可能な限り幸福から遠ざけられねばならない。
こうして自由を奪われた人々は、いつか決起しないとも限らない。秘密の打ち合わせは、仮面をつけて行われるだろうから、それも禁止しておくに若くはない。だがあからさまに市民を圧迫するような法律を並べ立てると心証を悪くするかもしれない。そこであたかも奇怪な夢のような法律を乱立して、本当に必要な法律が目立たないようにしておくのも手だろう。そこで例えば、青く染めた雛を売ってはいけないとか、病院でビールを飲んではいけないとか、子供が水たまりを飛び越える自由を奪わないとかいったお触れが出させることになる……。
掟の言葉はかつてそれが王の口から這い出していた時代の威光を引きずっているので、もはや王を持たない私たちの心にも不自然な重さでのしかかる。それゆえ不必要な、素っ頓狂な、時代遅れの法律も、いつまでも大きな顔をしてのさばることになるのである。
言葉に取り憑かれた私たちは、ついつい本の虫に身を堕としがちである。本の虫は書き言葉にまで話し言葉と同等の、あるいはそれ以上の権力を付与し、無反省に付き従う。だが「本の虫」とは元来、そんなにつまらない言葉ではない。『オックスフォード英語辞典』を繰ると、その最初の用例の一つは一五八〇年、スペンサーとハーヴェイという二人の紳士の間で交わされた往復書簡に見出せる。曰く「昼は本の虫、夜は酒の虫」。こうしてみると本の虫も存外、明るい連中である。酒で神経をほぐしてやれば、本の虫にも言葉の嘘を見破るだけの眼光が宿るのかもしれない。いや、見破るだけでは物足りない。嘘を真実に翻訳することさえ、できるようになるはずなのである。
翻訳したものをまた元に戻すことを反訳という。しかもややこしいことに、反訳という言葉は翻訳の同義語でもある。これはいったいどういうことなのだろうか。軌道を一周して元の位置に戻った惑星は、もはや別の天体になっているのかもしれない。あるいはテセウスの船という故事もある。腐った材木を入れ替えるうちにすべての部品が入れ替わってしまった船は、もはや同じ船と言えるのだろうか。
ただ一つ確かに思えるのは、その翻訳と反訳のあいだに、真実があるということだ。デリダに話を戻せば、彼はフランス領アルジェリア生れのユダヤ系フランス人で、親につけられた名前はジャッキーだった。ユダヤ人、アラブ人、フランス人のどれでもあり、どれでもない。そして名前はアメリカ風である。つまり彼にとって生きることとは翻訳と反訳の連続に他ならなかった。そんな彼が脱構築にたどりつくのは、したがって当然なのである。
しかしそれは、デリダの場合に顕著であった、というに過ぎない。私たちは誰ひとりとして、そそり立つ翻訳と反訳の壁に挟まれずにはすまないのである。あとはただ、それをどう乗り越えるかだ。
大野ロベルト
(第09回 了)
【画像キャプション】
「この御仁、まもなく脚立から転落……」
カール・シュピッツヴェーク「本の虫」一八五〇
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