第五回 私だけの言葉
まずはこの一覧表にお目通しいただきたい。
路肩。
大通り。
縁石の芝生。
縁石の通り。
悪魔の通り道。
地役権。
調度の区画。
草の入江。
自然の通り。
中立の地。
パークウェイ。
道路の余裕。
歩道の芝生。
道端。
歩道の芝生。
歩道の植え込み。
雪の棚。
空白地。
テラス。
樹木帯。
これは別に呪文でもなければ、『枕草子』の真似事でもない。実はこれらの言葉はすべて同じものを指している。それは何かと言えば、「アメリカの住宅地などによくある、道路と歩道のあいだの並木や芝生を植えた部分」である。実に馬鹿げているが、日本語では他に言いようがない。「パークウェイ」だけは手元の辞書に載っているが、定義に「道路の両側や中央分離帯に緑地帯を設けた道路」とある。これでは意味の範囲が広すぎて、「植え込み部分」を指す場合に限定することができない。いまの定義にあった「緑地帯」が日本語としてはまだ上等だが、これも草さえ植わっていればなんでもよいということになってしまうだろう。
だがいずれにせよ、日本人にとってこの「自宅」と「公道」を切り離す中間地帯は身近なものではないので、当然ながら、それを表す言葉もちぐはぐにならざるを得ない。ロラン・バルトの言を俟つまでもなく、確かに日本においても「空白」は大きな意味を持っている。だが日本の空白は存在の根本を規定する余白であって、自陣と敵陣を区別するための緩衝材ではない。だから日本の空白が顕著なのは能舞台に社寺仏閣、それに皇居であって、庶民の暮しが息づく地域はいかにもアジアらしく雑然としている。一方、開拓民であったアメリカ人の祖先にとっては地球の片隅に自分の土地を持つことが存在意義の中軸を貫いていたので、空白はやはりその聖地を取り囲んで外界から切り離すものでなければならない。逆に彼らにとって大勢の人間が集まる場所とは、たとえ神聖であっても社交の場であり結束の場である。大西部の小さな教会には立錐の余地もない。
一覧表には様々な州や地域で使われる表現を羅列してあるが、「空白地」や「中立の地」という名称が入っていることも如上の事情をよく表している。そのような場所だからこそ、ときにはそこを「悪魔」が横切ることもある。私なら「悪魔の通り道」ではなく「悪魔の散歩道」と呼ぶが、それは期待のしすぎらしい。
文化と密接に結びついた言葉、あるいは特定の文化のなかで鋳造された言葉というべきかもしれないが、このようなものは取りも直さず「袋小路の言葉」でもある。それは呼びかけてもなかなか答えてくれないし、よそ者になつく気配を見せない。大通りに連れ出すにはそれなりの努力が必要になる。
例えば見知らぬ街の石畳の感触をあなたが愉しんでいると、突然 attacabottoni がやってきて、こんな話をする。
お邪魔をしてすみません。いえ、tartle されることはありませんよ、私のことはご存知ないはずです。私は bardo からやってきたのです。そろそろ、あなたの adjal が近づいています。何事も計画づくめのあなたも、こればかりは faux frais だったのではありませんか? しかし何も恐れることはないのです、これは救いですよ、Schlimmbesserung の類ではなくて。ですから Weltschmerz に浸る必要はありません。もっともあなたのご友人のなかには、Schadenfreude を味わう方もあるかもしれませんが。
そう言って男は去ってゆく。あなたは frotteur に遭った人のように怖気をふるう……。
と、いったい何の悪ふざけかとお叱りを受けるまえに、早々に答え合わせをしておこう。この小さな物語に登場した外国語は、いずれも「他の言語に翻訳することが著しく困難」であるとされる単語である。attacabottoni はイタリア語で、「暗鬱な顔をして近づいてきて、悲しげで無意味な話をして去ってゆく退屈な男」を意味する。tartle はスコットランドで使われる、「人や物をすぐに認識できずにためらう」という意味の言葉。bardo はチベット語で、「生死の境目に存在する地平」である。一方、adjal はインドネシアの概念で、「あらかじめ決まっている死の刻限」を意味する。faux frais はフランス語で、「予算を立てるときに忘れがちな項目」、Schlimmbesserungはドイツ語で、「改良とは名ばかりの改悪」である。おなじドイツ語でWeltschmerz は「良家の子女にありがちな、世の儚さを浪漫的に誇張する態度」を、Schadenfreude は「他者の不幸に起因する喜び」を意味する。そして最後の frotteur は再びフランス語で、「人混みに紛れて体をこすりつけてゆく人」である。
しかしこのような遊戯には二重のひとりよがりが潜んでいないとも限らない。例えばチベットやインドネシアの言葉をローマ帝国の文字で記すことは、植民地主義的のそしりを免れないだろう。とはいえ、いくら日本の出版社や印刷所にこれらの言語の活字が揃っているにしても、あるいは死蔵・埋蔵されているとしても、読む人の大部分が当てずっぽうでさえ発音を推測できなければ、それは修飾としての言語使用というまったく別の表現の地平へとテクストを踊り出させることになる。
そして第二のひとりよがりは、言うまでもなく作者による読者の試験、あるいはもっと柔らかい言い方をすれば知的挑戦である。私の使いこなせる言葉を、当然あなたも理解できるでしょう、と問いかけながら、実は一つか二つ、どの読者にもわかるはずのない言葉を滑り込ませる老獪な作者の像。例えば森鴎外の小説を手に取ったとき、そのような像をまるで思い浮かべないということが可能だろうか?
あらゆる芸術は Liebeswerbung である。口説くのである。性欲を公衆に向って発揮するのであると論じている。そうして見ると、月経の血が戸惑をして鼻から出ることもあるように、性欲が絵画になったり、彫刻になったり、音楽になったり、小説脚本になったりするということになる。金井君は驚くと同時に、こう思った。こいつはなかなか奇警だ。しかし奇警ついでに、何故この説をも少し押し広めて、人生のあらゆる出来事は皆性欲の発揮であると立てないのだろうと思った。こんな論をする事なら、同じ論法で何もかも性欲の発揮にしてしまうことが出来よう。宗教などは性欲として説明することが最も容易である。基督を壻だというのは普通である。聖者と崇められた尼なんぞには、実際性欲を perverse の方角に発揮したに過ぎないのがいくらもある。献身だなんぞという行をした人の中には、Sadist もいれば Masochist もいる。性欲の目金を掛けて見れば、人間のあらゆる出来事の発動機は、一として性欲ならざるはなしである。Cherchez la femme はあらゆる人事世相に応用することが出来る。金井君は、若しこんな立場から見たら、自分は到底人間の仲間はずれたることを免れないかも知れないと思った。
(森鴎外「ヰタ・セクスアリス」)
だが鴎外がここですでに必死に訴えているように、知的挑戦とは本来、知的誘惑であったはずなのだ。
学校の課業はむつかしいとも思わなかった。お父様に英語を習っていたので、Adler とかいう人の字書を使っていた。独英と英独との二冊になっている。退屈した時には、membre という語を引いて Zeugungsglied という語を出したり、pudenda という語を引いて Scham という語を出したりして、ひとりで可笑しがっていたこともある。しかしそれも性欲に支配せられて、そんな語を面白がったのではない。人の口に上せない隠微の事として面白がったのである。それだから同時に fart という語を引いて Furz という語を出して見て記憶していた。あるとき独逸人の教師が化学の初歩を教えていて、硫化水素をこしらえて見せた。そしてこの瓦斯を含んでいるものを知っているかと問うた。一人の生徒が faule Eier と答えた。いかにも腐った卵には同じ臭がある。まだ何かあるかと問うた。僕が起立して声高く叫んだ。
『Furz !』
『Was? Bitte, noch einmal !』
『Furz !』
教師はやっと分かったので顔を真赤にして、そんな詞を使うものではないと、懇切に教えてくれた。
(同)
私たちはみな辞書を引く子供だ。あらゆる言葉が隠語であることに思い当たり、顔を紅潮させている子供なのだ。
だからフーコーがその哲学を語るために半頁のギリシャ語を説明もなしに引用したからと言って、腹を立てるには当たらない。追いかければよいのである。鬼ごっこを好かない子供はいない。
それでも体力に自信がないと言うのなら、縁側で雪を見るのもよい。「悪魔の散歩道」を喚起するために二十の文句を要することもあれば、「雪」をその真の姿に合わせて十通りに言い替える方法もある。ましてや雪国ではなおさらである。
津軽の雪
こな雪
つぶ雪
わた雪
みづ雪
かた雪
ざらめ雪
こほり雪
(東奥年鑑より)
(太宰治『津軽』)
雪が積もると音が聞こえなくなる。しかしそれでも、鳴りやまない音というものがある。「耳について離れない音や音楽」を表す言葉が、またしてもドイツの辞書を繰ると見つかるのだが、こんどは翻訳してみよう。曰く「耳虫」。おそらく耳虫の最たるものは静寂であろう。そして静寂は、豈図らんや、言葉で満たされている。
(第05回 了)
大野ロベルト
【画像キャプション】
「耳をつんざくは内奥なる静寂……」
エドヴァルド・ムンク「叫び」1893年
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■